836年、藤原北家の藤原長良の三男として生まれます。しかし、最高権力者である叔父の藤原良房には跡継ぎとなる男子がいなかったため、基経は良房の養子として迎えられ、次期リーダーとしての英才教育を受けました。
872年に偉大なる養父・良房がこの世を去ると、基経は藤原北家の氏長者(トップ)として全権力を引き継ぎます。良房が完成させた「天皇の外祖父(母方のおじいちゃん)」という強力なポジションを武器に、朝廷を完全に掌握しました。
清和天皇の次に即位した陽成天皇は、成長するにつれて乱暴な振る舞いが目立つようになりました。宮中で殺人事件が起きるに至り、基経はなんと臣下でありながら天皇に圧力をかけて「強制的に退位させる」という前代未聞の実力行使に出ます!
陽成天皇を退位させた後、基経が新しい天皇として選んだのは、皇位に就くことなど全く諦めていた55歳の光孝天皇でした。思いがけず天皇にしてもらえた光孝天皇は基経に深く感謝し、彼に一切逆らわない絶対服従の姿勢をとりました。
光孝天皇は基経に対し「国政のすべてをあなたに任せます」という詔(みことのり)を出しました。幼い天皇を補佐する「摂政」に対し、大人の天皇を補佐して実権を握るこの役職が、歴史上初めての「関白(かんぱく)」の誕生となりました。
光孝天皇が崩御すると、基経はその息子である宇多天皇を即位させます。宇多天皇も当然、基経に対して「これまで通り国政を任せる(関白に任じる)」という内容の詔書を出したのですが、ここに思いがけないトラブルの火種が潜んでいました。
宇多天皇の詔書の中に「よろしく阿衡(あこう)の任をもって…」という言葉がありました。基経は「阿衡とは名前だけで実権のない役職だ!私に政治をするなと言うのか!」と大激怒し、一切の政務を放棄する歴史的ストライキを起こします(阿衡の紛議)。
最高権力者である基経が約半年にわたって自宅に引きこもり仕事をボイコットしたため、朝廷の機能は完全にストップし、大パニックに陥りました。これは「天皇の命令よりも、自分の機嫌の方が上である」ということを天下に示すための強烈なデモンストレーションでした。
困り果てた宇多天皇を救ったのが、讃岐国(香川県)にいた天才学者・菅原道真でした。道真が基経に対して「これ以上天皇をいじめるのは藤原氏の顔に泥を塗る行為ですよ」と筋の通った見事な手紙を送ったことで、基経もようやく機嫌を直しました。
最終的に宇多天皇が詔書を取り消して謝罪するという形で事件は決着し、基経の権力は「天皇すらもひれ伏す」絶対的なものとなりました。891年に56歳で亡くなるまで、彼が構築した「摂政・関白」のシステムは、その後数百年にわたる藤原氏の繁栄を約束したのです。