1760年、江戸の本所割下水(現在の東京都墨田区)に生まれました。幼い頃から絵を描くことへの異常な執着を見せ、最初は木版画の彫り師として働いていましたが、19歳で人気の浮世絵師・勝川春章(かつかわ しゅんしょう)に入門し、「勝川春朗」という名でデビューしました。
春章の死後、ライバルである狩野派の画法をこっそり学んでいたことがバレて、勝川派を破門されてしまいます。しかし北斎は全くめげず、狩野派だけでなく土佐派、琳派、さらには中国画や西洋の遠近法・陰影法まで、あらゆる流派の技法を貪欲に盗んで自分のものにしていきました。
彼にとって人生のすべては「絵を描くこと」であり、掃除や料理などには全くの無頓着でした。部屋がゴミだらけになって絵が描けなくなると引っ越すという生活を繰り返し、生涯でなんと93回も転居!さらに「北斎」「画狂老人」など、ペンネーム(画号)も30回以上変えています。
弟子たちのための絵の教科書(スケッチ集)として出版した『北斎漫画』には、人間のリアルな動き、動物、妖怪、風景など、ありとあらゆるものが生き生きと描かれていました。これが日本国内で大ヒットしただけでなく、のちに海を渡って西洋の芸術家たちを熱狂させることになります。
パフォーマンスも超一流でした。江戸の町で、120畳もある超巨大な紙にほうきのような大筆で巨大な達磨(だるま)を描いて人々を驚かせたかと思えば、今度は一粒の米の上に二羽の雀を精密に描いてみせるなど、圧倒的な画力でエンターテイナーとしても大活躍しました。
第11代将軍・徳川家斉の前で絵を描くことになった際、北斎は紙に青い絵の具をサッと刷毛で塗り、そこへ足に赤い絵の具をつけた鶏を歩かせました。そして「これは川を流れる真っ赤な紅葉(竜田川)でございます」と見事な即興アートを披露し、将軍を大いに驚かせました。
人生の晩年である72歳で、当時輸入されたばかりの鮮やかな青色(ベロ藍)をふんだんに使った風景画シリーズ『富嶽三十六景』を発表!「赤富士」と呼ばれる『凱風快晴』など、斬新な構図で富士山を描いたこのシリーズは空前の大ブームを巻き起こし、風景画というジャンルを確立しました。
その中でも『神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)』は別格の傑作です!荒れ狂う巨大な波のダイナミズムと、その奥で静かに佇む富士山という完璧なコントラストは、のちのフランスの作曲家ドビュッシーに交響詩『海』を作曲させるなど、世界で最も有名な日本の絵画(The Great Wave)となりました。
彼の作品がヨーロッパに輸出されると、モネやドガ、ゴッホといった印象派の巨匠たちに「なんだこの自由な構図と色彩は!」と雷に打たれたような大衝撃を与えました。北斎がいなければ、現代の西洋美術の歴史は全く違うものになっていたと言われるほどの影響力(ジャポニスム)です。
90歳という長寿を全うしましたが、死の直前まで絵への執念は燃え盛っていました。息を引き取る直前、「天が私にあと10年の命をくれたら…いや、あと5年命をくれたら、本当の絵師になれたのに!」と悔し涙を流したと伝えられています。どこまでも高みを目指した、芸術の鬼の最期でした。