1618年頃、安房国保田(現在の千葉県鋸南町)に生まれます。実家は金銀の糸で刺繍を施す「縫箔(ぬいはく)」という高級な着物作りの工房でした。幼い頃から美しい着物の柄や下絵のデザインに触れていたことが、後の彼の圧倒的な美意識とデザイン感覚のルーツとなります。
青年期に大都会・江戸へと進出します。幕府の公式な絵師である「狩野派」の力強い筆遣いや、日本の伝統的な大和絵を描く「土佐派」の繊細な色彩など、一流の画法を貪欲に学び、和漢のあらゆるテクニックを自分の中に吸収していきました。
当時、江戸では町人文化が花開き、仮名草子などの大衆向けの読み物(版本)が大流行していました。師宣は初め、これらの本の中に挿し込まれる白黒の挿絵(木版画)を描く仕事からキャリアをスタートさせ、その表現力で次第に頭角を現していきます。
「文字のオマケではなく、この美しい絵だけをじっくり鑑賞したい!」という庶民のニーズに気づいた師宣は、本から絵だけを独立させ、一枚の紙に刷って販売する「一枚摺(いちまいずり)」というスタイルを考案!これが、日本が誇るアート「浮世絵」が誕生した歴史的な瞬間です。
彼が描いたのは、吉原の美しい遊女たちや、舞台で活躍する歌舞伎役者、そして花見を楽しむ庶民の姿など、当時の「浮世(現代風の、最新の)」のリアルな風俗でした。生き生きとしたその描写は、江戸の人々のハートを完全に鷲掴みにしました。
師宣の描く絵は、単なるアートにとどまりません。絵の中に描かれた着物の新しい模様や、最新の髪型(吉原髷など)は、たちまち江戸の女性たちの間で大流行しました。彼の浮世絵は、現代における最先端のファッション誌(スタイルブック)としての役割も果たしていたのです。
彼は木版画だけでなく、絵の具で直接キャンバス(絹)に描く「肉筆浮世絵」の名手でもありました。その最高傑作が『見返り美人図』です。歩みを止めてふと振り返る女性の美しい一瞬を切り取ったこの作品は、浮世絵の歴史を象徴する永遠のアイコンとして現在も愛されています。
江戸で誰もが知る超売れっ子クリエイターになっても、彼は故郷への愛を忘れませんでした。自分の作品のサインには、好んで「房州 菱川師宣」あるいは「安房国 菱川師宣」と書き入れ、自身のルーツである千葉の地を生涯誇りに思っていました。
需要の爆発的な増加に応えるため、師宣は弟子たちを集めて「菱川派」という一大工房を作り上げました。生涯で約60種以上の絵本や無数の版画を制作し、大量生産できる木版画のシステムを構築することで、アートを「庶民が手軽に買えるもの」に変えたのです。
1694年に亡くなるまで筆を握り続け、浮世絵の基礎を一人で完成させました。彼が蒔いた大衆芸術の種は、のちの鈴木春信(錦絵の誕生)や喜多川歌麿、葛飾北斎へと受け継がれ、やがて海を渡ってゴッホやモネなど世界の巨匠たちに衝撃を与えることになります。