701年、第42代文武天皇と、藤原不比等の娘である宮子(みやこ)の間に生まれました。つまり、絶対的な権力者である藤原不比等の「孫」にあたります。将来の天皇になることを運命づけられた超エリートでしたが、生まれつき病弱であり、繊細で心優しい性格だったため、周囲からの重圧に深く悩みながら成長していくことになります。
24歳で天皇に即位すると、藤原氏のバックアップを受け、妻である安宿媛(あすかべひめ/のちの光明皇后)を天皇の正妻である「皇后」に大抜擢します!当時、皇后になれるのは皇族の女性だけという絶対のルールがありましたが、長屋王(ながやおう)などの反対派を退け、日本史上初となる「皇族以外の皇后」を誕生させました。
しかし、彼の治世は信じられないほどの災害に見舞われます。737年、「天然痘(てんねんとう)」という恐ろしい伝染病が大流行し、政治のトップにいた藤原四兄弟をはじめ、日本の人口の約3割が命を落とすという地獄絵図に!さらに大地震や大飢饉が連続して起こり、繊細な天皇は「すべては私の徳が足りないせいだ…」と激しく自分を責めました。
災害に追い打ちをかけるように、740年には九州で「藤原広嗣の乱(ふじわらのひろつぐのらん)」という大規模な反乱が勃発します!度重なる災難と裏切りに、天皇の恐怖と政治への不安はついに頂点に達しました。心が休まる暇のない聖武天皇は、ここから「仏様の力で国を救う(鎮護国家)」という壮大なビジョンへと傾倒していくことになります。
広嗣の乱にショックを受けた天皇は、なんと突然、立派な平城京(奈良)を捨てて引っ越しを始めます!恭仁京(京都)、難波京(大阪)、紫香楽宮(滋賀)と、わずか5年の間に次々と都を移転するという前代未聞の行動に出ました。悪い運気を断ち切るためとも言われますが、付き合わされた貴族や、建設工事に駆り出された民衆は疲労困憊でした。
741年、国を仏教の力で守るため「国分寺建立の詔(こくぶんじこんりゅうのみことのり)」を出します。これは「日本全国のすべての国(県)に、お寺(国分寺)と尼寺(国分尼寺)をセットで建てなさい!」という途方もない命令でした。全国一斉にお経を読ませることで、疫病や反乱などの災いを国家レベルの魔法陣のようなもので防ごうとしたのです。
743年、紫香楽宮でさらにスケールの大きな命令を出します。それが「大仏造立の詔」です。「一本の草、一握りの土でもいいから、みんなの力を合わせて巨大な仏様(盧舎那仏)を造ろう!」と国民に呼びかけました。天皇の命令で強制的に作らせるのではなく、「民衆の自発的な協力」によって、バラバラになった国を一つにまとめようとしたのです。
大仏という前代未聞の巨大事業を成功させるため、天皇は驚くべき決断をします。かつて朝廷が「危険な犯罪者」として弾圧していた、民衆のカリスマ僧侶・行基(ぎょうき)に頭を下げて協力を要請したのです!行基を仏教界のトップである「大僧正」に任命し、彼の圧倒的な人気と土木技術を借りることで、ついに大仏造立プロジェクトは軌道に乗りました。
752年、ついに東大寺の大仏が完成!仏様に目を入れる「大仏開眼供養会(だいぶつかいげんくようえ)」という超豪華なセレモニーが開催されました。インドや中国からやってきた僧侶が儀式を行い、1万人以上のお坊さんが参加するという、国際色豊かで華やかなイベントでした。シルクロードの終着点として「天平文化」が最も輝いた瞬間です。
756年、聖武天皇は56歳で病により崩御しました。深い悲しみに暮れた妻の光明皇后は、「天皇の遺品を見るたびに涙が止まりません」と言って、彼が愛用していたペルシャや唐の美しい宝物を東大寺に献納しました。これが、現在まで1200年以上も宝物を守り続けている世界的な宝物庫「正倉院(しょうそういん)」の始まりです。