574年、用明天皇の第二皇子として誕生します。お母さんが馬小屋(厩)の前を通った時にスルッと生まれたという伝説から「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」と呼ばれました。なんと子供の頃から天才で、10人が同時に話しかけても、誰が何を言っているのか全て正確に聞き分けたという「豊聡耳(とよとみみ)」の伝説があるほどです!この人間離れした超人的なエピソードからも、彼がいかに特別でスゴイ人物だったかが分かりますね。
聖徳太子が若い頃、日本に外国から「仏教」が伝わってきました。「仏教を信じよう!」という蘇我馬子(そがの うまこ)と、「日本の神様が怒るからダメだ!」という物部守屋(もののべの もりや)が激しい戦争を起こします。太子は蘇我氏の味方として参戦し、「もし勝てたら、仏様のために立派なお寺を建てます!」と祈願しました。見事に勝利した太子は、約束通り大阪に「四天王寺」という大きなお寺を建てたのです。
593年、日本で初めての女性天皇である推古天皇(すいこてんのう)が即位します。しかし、女性天皇一人で国をまとめるのは大変です。そこで、甥っ子であった聖徳太子が摂政(せっしょう)というポジションに大抜擢されました!摂政とは、天皇の代わりに政治を行う超重要な役職のこと。太子は、一緒に戦った蘇我馬子と協力しながら、天皇を中心とした強い国づくり(政治改革)を本格的にスタートさせていくのです。
603年、歴史のテストで絶対に出る冠位十二階(かんいじゅうにかい)というルールを作ります。これまでの日本は「家柄」だけで役人の地位が決まっていましたが、太子は「身分が低くても、才能や手柄がある優秀な人はどんどん採用するぞ!」と実力主義へとルールを変更したのです。役人のランクを12個の階級に分け、被る「冠の色」で一目でレベルが分かるようにしました。才能ある若者たちにとって、大チャンスの時代が到来しました!
604年、またしてもテストに絶対出る超重要ルール十七条の憲法(じゅうしちじょうのけんぽう)を制定します。「和を以て貴しと為す(みんなで仲良く協力することが一番大切だよ)」で始まるこの法律は、国民のルールではなく「役人としての心構え」を書いたものです。天皇の命令をしっかり聞くことや、仏教を深く敬うことなど、国家の役人が守るべき道徳的なルールをビシッと示しました。日本の法律のルーツとも言える画期的な出来事です。
607年、超大国の中国(隋)から進んだ文化を学ぶため、小野妹子(おのの いもこ)を遣隋使(けんずいし)として派遣します。この時、太子は「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す(日の昇る日本の天皇から、日の沈む隋の皇帝へお手紙を送ります)」というとんでもなく強気な手紙を持たせました!「日本は隋の部下ではなく、対等な国だぞ!」とアピールしたのです。隋の皇帝は激怒しましたが、日本の独立を守る立派な外交でした。
太子は仏教をとても大切に保護し、日本に仏教を根付かせた「仏教興隆の祖」と呼ばれています。奈良県に世界最古の木造建築として有名な法隆寺(ほうりゅうじ)を建てたのも彼です。仏教の教えや美しい仏像などの芸術がパッと花開いたこの時代を飛鳥文化(あすかぶんか)と呼びます。太子は単なる政治家ではなく、日本の文化や芸術を世界レベルにまで引き上げた、超一流の文化プロデューサーでもあったのです。
620年、太子は蘇我馬子と協力して、日本の歴史をまとめた『天皇記』や『国記』という歴史書を作りました。「日本という国がどうやって誕生し、天皇がどれほど素晴らしい存在なのか」を文字にして記録することで、国の威厳をさらに高めようとしたのです。残念ながら、これらの歴史書はのちの時代(乙巳の変)の火事で燃えてしまい、現在は残っていませんが、国をまとめるためには「歴史を知る」ことが大切だと分かっていた太子の賢さが伝わります。
政治のドロドロとした中心地であった飛鳥(あすか)の地から少し離れて、太子は斑鳩(いかるが)というのどかな場所に自分のお城(斑鳩宮)を建てて引っ越しました。ここは、法隆寺がある場所でもあります。蘇我馬子との権力争いを避けたという説もありますが、静かなこの場所を拠点にして、外国の使者を迎えたり、仏教の勉強に集中したりと、独自の政治的・文化的な活動をマイペースに展開していきました。
622年、病気のため斑鳩宮で49歳の生涯を閉じます(薨去)。太子の死を悲しんだ人々は、彼を「神様のように素晴らしい人だ」「救世観音の生まれ変わりだ!」と神格化し、のちの時代まで熱烈に崇拝するようになりました(太子信仰)。日本という国のカタチを作り、数え切れないほどの伝説を残した聖徳太子。彼が日本の歴史に与えた影響は計り知れず、昔のお札(一万円札など)の顔として最も多く選ばれているのも納得の偉大さです!