1810年、備中国(岡山県)の足守藩士の家に生まれます。幼い頃から体が弱く、病気がちだった洪庵は、「自分のように病気で苦しむ人々を救いたい!」と強く願い、武士として出世する道ではなく、人を助ける「医者」になることを決意しました。
16歳で蘭方医(西洋医学の医者)の中天游に入門して大坂で学び、さらに江戸へ出て蘭学の第一人者・坪井信道の弟子となります。その後、オランダの最新知識が集まる長崎へも遊学し、当時の日本で最高レベルの西洋医学とオランダ語を猛スピードで吸収していきました。
長崎での遊学を終えた1838年、29歳の時に大坂で病院を開業し、同時に蘭学を教える私塾「適塾(てきじゅく)」を開校します。武士や町人といった身分に関係なく、「最先端の学問を学びたい!」という情熱ある若者たちを全国から広く受け入れました。
塾の経営や患者の診察で多忙を極める中、洪庵は寝る間も惜しんでオランダの医学書の翻訳に取り組みました。特に、ドイツの医師フーフェラントの医学書を翻訳した『扶氏経験遺訓(ふしけいけんいくん)』は、日本の西洋医学を飛躍的に進歩させた歴史的な名著となりました。
適塾の教育は超実力主義のスパルタ!塾生たちはたった1冊のオランダ語の辞書(ヅーフ辞書)を奪い合うように引き、夜通しオランダ語の原書を翻訳する「会読(かいどく)」というバトル(競争)に明け暮れました。この厳しい環境が、自ら考える力を持ったタフな若者たちを育て上げたのです。
この適塾からは、のちに慶應義塾を創設した福沢諭吉や、日本陸軍の創始者となる大村益次郎、橋本左内など、幕末から明治にかけて日本の歴史を大きく動かす超エリートたちが次々と輩出されました!近代日本の原動力は、ここ大坂の適塾から生まれたと言っても過言ではありません。
当時、致死率が高く恐れられていた感染症「天然痘」を防ぐため、牛の痘そう(ワクチン)を接種する「種痘(しゅとう)」という画期的な予防法を広める決意をします。私財を投じて大坂に「除痘館(じょとうかん)」を設立し、種痘の無料接種をスタートさせました。
しかし、当時の人々にとってワクチンは未知のものであり、「種痘を打つと牛になる!」という恐ろしいデマが広がり、激しいバッシングを受けます。それでも洪庵は決して諦めず、自らの子供に接種して安全性を証明するなど、粘り強い啓蒙活動で種痘を日本中に定着させました。
1858年、日本で「コロリ(コレラ)」が猛威を振るい、大パニックに陥ります。洪庵はすぐさま最新のオランダ医学書からコレラの治療法や予防法を抜き出し、わずか数日で『虎狼痢治準(ころりちじゅん)』という治療マニュアルを翻訳出版して全国の医師に配り、被害の拡大を防ぎました。
その卓越した技術と人望は幕府の耳にも届き、1862年、何度も断った末に江戸へ呼ばれ、なんと第14代将軍・徳川家茂の「奥医師(主治医)」および西洋医学所の頭取に大抜擢されます!しかし、多忙と過労が重なり、翌年1863年に54歳で突然息を引き取りました。生涯を医療と教育に捧げた、偉大なる人生でした。