866年頃、かつては名門であったものの藤原氏の台頭によって政治的に没落しつつあった紀氏(きうじ)に生まれます。政治的な大出世は望めない環境でしたが、彼は幼い頃から和歌や文学の並外れた才能を秘めていました。
若い頃から様々な歌合(うたあわせ:和歌のコンテスト)に出詠し、たちまちその才能が評判となります。政治家としては下級貴族に甘んじましたが、歌人としての圧倒的な実力で宮中での存在感を高めていきました。
当時は中国の「漢詩」がインテリの教養とされ、「和歌」は一段低いものとされていました。しかし、日本独自の文化を重んじる醍醐天皇から「日本初の公式な和歌集を作れ!」という歴史的な特命(勅命)を受けます。
従兄弟の紀友則や、壬生忠岑、凡河内躬恒というトップクラスの歌人たちと共に編纂作業に没頭。集められた約1000首の和歌を季節や恋などのテーマごとに美しく分類し、905年に『古今和歌集』を見事に完成させました。
彼が『古今和歌集』の巻頭にひらがなで書いた前書き「仮名序(かなじょ)」は超重要です!「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」という書き出しで、和歌の素晴らしさと歴史を宣言した、日本初の本格的な文学論です。
『古今和歌集』の完成により、彼の名声は頂点に達します。醍醐天皇の時代に開かれた数々の重要な歌合で判者(審査員)や作者を務め、誰もが認める平安歌壇の絶対的なリーダーとして君臨し続けました。
60歳を超えてから、地方官である土佐守(とさのかみ)に任命され、家族を連れて遠く離れた土佐国(現在の高知県)へ赴任します。都の華やかな文化から離れ、約4年間の厳しい地方行政に取り組みました。
任期を終えて京都へ帰る約55日間の船旅を『土佐日記』として綴ります。「男が書く日記というものを、女の私も書いてみよう」と、なんとあえて「女性のふり」をして全編ひらがなで執筆するという、当時としては超前衛的な手法をとりました!
『土佐日記』の根底に流れているのは、赴任先の土佐で幼い娘を病で亡くしたという痛切な悲しみです。旅の途中で美しい景色を見ても、「亡き娘が生きていれば…」と涙を流す父親としての深い愛情と哀愁がリアルに描かれています。
945年頃に80歳前後でこの世を去りましたが、彼が「仮名序」や『土佐日記』で証明した「ひらがな(かな文字)で豊かな感情や文学を表現できる」という事実は、その後の紫式部や清少納言らによる華やかな女流文学へと直結し、日本の文化を根本から創り上げました。