1712年、越後国(新潟県)の医者の家に生まれました。幼い頃から学問に秀でており、若い頃に大志を抱いて京都へ上り、儒学や神道を深く学び始めます。
京都で、山崎闇斎の流れをくむ若林強斎の弟子から「垂加神道(すいかしんとう)」を学びます。「君臣の義(天皇への絶対的な忠誠)」を重んじるこの思想に雷に打たれたような衝撃を受け、その教えを極めました。
当時の京都の公家たちは、江戸幕府の圧倒的な権力の前に無気力になっていました。式部はその堕落を嘆き、若い公家たちを集めて「天皇の本来の偉大さを思い出せ!」と熱血講義をスタートさせます。
式部の教育はただの座学にとどまりません。「公家といえども、いざという時は武力も必要だ!」と、朝廷の権威を取り戻すために兵学や武術まで教え込み、公家たちの心に誇りと闘志を呼び覚ましました。
式部の講義を受けた徳大寺公城などの側近たちを通じて、彼の熱い思想はなんと当時まだ10代だった若き桃園天皇(ももぞのてんのう)の耳にも届き、天皇自身もその教えに深く傾倒していくことになります。
「朝廷が幕府に反抗しようとしているのでは!?」と、事態を重く見た関白などの保守派のトップ公家たちは恐怖に震えます。彼らは江戸幕府と結託し、式部とその門下生たちを弾圧する計画を企てました。
1758年、ついに幕府からの厳しい取り調べが行われ、式部は捕らえられてしまいます。激しい拷問のような尋問にも屈しませんでしたが、最終的に重追放(京都からの永久追放)の判決を受けました(宝暦事件)。
京都を追われた式部は伊勢国(三重県)などに身を寄せます。罪人として監視される不自由な生活でしたが、彼を慕って訪ねてくる若者たちに密かに尊王の教えを説き続け、その情熱の炎を絶やすことはありませんでした。
宝暦事件から約10年後の1767年、江戸で倒幕を企てたとして山県大弐が処刑される「明和事件」が勃発。式部は直接関係なかったにも関わらず、「以前、大弐と親交があった」というだけで連座させられ、過酷な八丈島への流罪を命じられます。
流刑地である八丈島へ向かう過酷な船旅の途中、病に倒れて三宅島で無念の生涯を閉じました(享年56)。しかし、彼が命懸けで説いた「尊王論」の精神は、のちに吉田松陰など幕末の志士たちに受け継がれ、明治維新を引き起こす巨大な嵐となっていきます。