774年、讃岐国(香川県)の豪族の家に生まれました。幼名は真魚(まお)。非常に頭が良く、15歳で都へ上り、エリート官僚を養成する「大学寮」に入学します。しかし、出世のための学問に疑問を持ち、「もっと直接的に人々を救う教えが必要だ!」と、なんと大学を中退!親族の大反対を押し切り、険しい山林で厳しい修行を行う道(私度僧)を選びました。
山林修行中、室戸岬(高知県)にある御厨人窟(みくろど)という洞窟で、虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)という過酷な記憶術の修行を行っていました。その時、口の中に明星(金星)が飛び込んでくるという神秘的な体験をし、悟りを開きます。洞窟から見えたのが「空」と「海」だけだったことから、自らを「空海」と名乗るようになったと言われています。
804年、仏教の真髄である「密教(みっきょう)」を本格的に学ぶため、第18次遣唐使の船に乗って唐(中国)へ渡ります。この時の船には、のちの天台宗の開祖となる最澄(さいちょう)も乗っていました。嵐を乗り越えてなんとか唐にたどり着きますが、最初は海賊と疑われて上陸を拒否されます。しかし、空海が書いた見事な中国語の手紙に現地の役人が驚愕し、無事に上陸を許されました。
唐の都・長安で、密教の最高権威である恵果(けいか)和尚と運命の出会いを果たします。恵果は空海を一目見るなり「あなたが来るのをずっと待っていました!」と大喜び。数千人の弟子を差し置いて、空海に密教の奥義のすべてを注ぎ込みました。普通なら20年かかる修行を、空海はなんとわずか数ヶ月でマスターし、密教の正統な後継者となって日本へ帰国します。
帰国後、空海が持ち帰った最新の密教は大きな話題になります。先輩である最澄も空海から密教を学ぶため、弟子入りするような形で教えを乞い、二人は経典の貸し借りをするなど親しく交流しました。しかし、次第に仏教に対する考え方の違いが浮き彫りになり、弟子の引き抜き問題や「理趣経」という経典の貸し借りを巡るトラブルが原因で、最終的に二人は決別してしまいます。
816年、空海は嵯峨天皇に「山奥で静かに密教の修行をするための場所をください」とお願いし、紀伊国(和歌山県)にある標高約900mの「高野山(こうやさん)」を賜りました。ここに金剛峯寺(こんごうぶじ)を建立し、真言密教の根本道場とします。現在でも世界遺産として多くの信仰を集める、天空の宗教都市の誕生です。
高野山を開いた後も、空海は天皇から絶大な信頼を受けます。823年には、京都の入り口に位置する巨大なお寺「東寺(とうじ)」を賜りました。空海はここを真言宗の専門道場とし、立体曼荼羅(仏像を並べて密教の世界観を視覚的に表したもの)を完成させるなど、ビジュアルを重視したわかりやすい方法で貴族から庶民まで多くの人々の心を掴みました。
空海は「日本三筆(さんぴつ)」の一人に数えられるほど、書の天才でもありました。唐の皇帝すら驚嘆させたという美しい字を書きました。「弘法にも筆の誤り(どんな達人でも失敗することはある)」「弘法筆を選ばず(本当の達人は道具の良し悪しにこだわらない)」という有名なことわざは、彼の圧倒的な書道スキルと知名度の高さから生まれたものです。
宗教家としてだけでなく、教育者としても超一流でした。当時の学校(大学寮)は貴族の子供しか入れませんでしたが、空海は「身分や貧富に関係なく、誰もが学べる場所が必要だ」と考え、828年に京都に「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」という私立学校を設立しました。給食まで出るという、現代の学校システムを1000年以上も先取りした画期的なものでした。
835年、62歳になった空海は、高野山で弟子たちに見守られながら静かに目を閉じます。真言宗では、空海は死んだのではなく、すべての人々を救うために永遠の瞑想に入った(入定:にゅうじょう)と考えられています。現在でも高野山の奥之院では、生きたまま瞑想を続けているとされる弘法大師のために、毎日欠かさず食事が運ばれ続けています。