1561年、尾張国(愛知県)で生まれました。幼名は市松。母親が豊臣秀吉の叔母であった縁で、幼い頃から秀吉に小姓として仕え、我が子のように可愛がられました。初陣である三木合戦の時からすでに凄まじい武勇を発揮し、若くして秀吉軍の強力な戦力として頭角を現します。
1583年の「賤ヶ岳の戦い」では、敵の猛将・拝郷家嘉を討ち取るという最大級の武功を挙げます!加藤清正らと共に「賤ヶ岳の七本槍」と讃えられましたが、正則だけが飛び抜けて高い恩賞(5000石)を与えられており、名実ともに秀吉子飼いの若手武将の「筆頭」として天下に名を轟かせました。
正則は大の酒好きで、酒癖が悪いことでも有名でした。ある時、黒田長政の使者として来た母里太兵衛に「これを飲み干せたら何でも褒美をやる」と大鉢の酒を強要します。見事に飲み干した太兵衛に、秀吉から賜った天下の名槍「日本号」を要求され、武士の約束として泣く泣く渡したという豪快な失敗談があります。
最前線で血を流す正則たち「武断派」と、後方で政治や補給を行う石田三成たち「文治派」の溝は次第に深まります。朝鮮出兵での三成の報告に不満を爆発させた正則は、秀吉の死後、加藤清正らと共に三成の屋敷を武力で襲撃する(七将の三成襲撃事件)という実力行使に出ました。
1600年、石田三成が挙兵したという知らせを小山(栃木県)で聞いた徳川家康は、豊臣恩顧の武将たちに「西軍につくか、私(東軍)につくか」を問います。この時、正則が真っ先に「家康公に味方する!」と大声で宣言したことで場の空気が一変し、多くの武将が東軍につく決定的なキッカケを作りました。
関ヶ原の戦いの本戦では、東軍の先陣を任されて西軍の主力である宇喜多秀家軍と激突!一進一退の凄まじい死闘を繰り広げ、東軍の勝利に多大な貢献を果たしました。三成への個人的な怒りから戦いましたが、結果的にこれが豊臣家を滅ぼす家康の天下取りを決定づけることになります。
関ヶ原の戦功により、安芸・備後(広島県)49万石という巨大な領地を与えられ、名実ともに大大名となります。広島城を大改修し、城下町の整備や検地を行うなど、単なる猛将ではなく領国経営においても優れた手腕を発揮して広島の発展の基礎を築きました。
徳川の世が盤石になる中、豊臣家を滅ぼす「大坂の陣」が始まります。正則は江戸に留め置かれ、出陣を許されませんでした。豊臣家への恩義と幕府への忠誠の間で激しく苦悩し、大坂城にある広島藩の米を豊臣軍が没収するのを黙認するなど、密かに豊臣家への情を見せました。
豊臣家が滅亡した後の1619年、台風で石垣が崩れた広島城を幕府に無断で修理したとして、武家諸法度違反を問われます。豊臣恩顧の筆頭であり、強大な武力を持つ正則を危険視した第2代将軍・秀忠の強硬策により、なんと領地をすべて没収(改易)されてしまいました!
巨大な権力を失い、信濃国(長野県)高井野藩にわずか4万5千石で移封(減封)されました。幕府からの厳しい監視の中、失意のまま1624年に64歳で亡くなります。しかも幕府の検死役が到着する前に家臣が遺体を火葬してしまったため、残された領地まで没収されるという、不器用な戦国武将の哀愁漂う最期でした。