1886年、岩手県のお寺の住職の長男(本名:石川一)として生まれます。幼い頃から非常に頭が良く、小学校を首席で卒業するなど「神童」と持てはやされ、周囲の大きな期待を背負って育ちました。
盛岡中学校に進学しますが、上級生の金田一京助らと交わるうちに文学(特に雑誌『明星』)に熱狂し、勉強を放棄。試験のカンニングや無断欠席が重なって自主退学に追い込まれ、エリート街道から転落してしまいます。
文学への夢を捨てきれず上京し、与謝野鉄幹・晶子夫妻の支援を受けて新進気鋭の詩人として活動を開始。19歳で処女詩集『あこがれ』を出版し、「天才詩人が現れた!」と文壇から大きな注目を集めました。
幼馴染の節子と結婚しますが、実家の寺がトラブルで追放され、一家の生活を背負うことになります。故郷で代用教員として働きますが、ストライキを扇動したことで免職となり、家族を残して単身で北海道へと逃亡しました。
函館、札幌、小樽、釧路と、北海道各地を転々としながら新聞記者として働きます。この時の北の大地での孤独と哀愁に満ちた放浪体験が、のちの彼の短歌に深い奥行きとリアリティを与えることになりました。
「詩や短歌では食えない」と悟り、人気小説家を目指して再び上京して猛烈な勢いで小説を書きまくります。しかし、彼の書く小説は全く売れず、ついにはその日のご飯にも困るような絶望的な極貧生活に陥ってしまいました。
そんな借金まみれで破滅的な生活を送る彼を救ったのが、中学時代の先輩である言語学者の金田一京助です。金田一は自分の蔵書や衣服を質に入れてまでお金を作り、啄木の生活と文学活動を無償の愛で支え続けました。
1910年、彼を不滅の存在とした第一歌集『一握の砂』を出版。「働けど働けど猶わが生活楽にならざり…」など、生活の苦しさを平易な言葉で詠み、さらに短歌を「三行書き」にするという画期的なスタイルで短歌界に革命を起こしました!
妻に読まれないように、自身の借金の言い訳や、遊郭での出来事、友人への愚痴などをすべてローマ字で綴った『ローマ字日記』を密かに書き残しました。彼の天才的な才能の裏にある、あまりにも人間臭い「クズっぷり」が赤裸々に記されています。
才能が開花した矢先、長年の極貧生活が祟って肺結核に倒れ、1912年に妻と親友の若山牧水らに看取られながら26歳という若さでこの世を去りました。彼が確立した、飾らない日常を詠む「生活派」の短歌は、現在も日本人の心に深く刺さり続けています。