戦国時代を代表する天才的な戦術家であり、大国に挟まれた小国を生き残らせたサバイバルの達人です!武田信玄から「我が両目のごとき者」と絶賛されて軍略を学び、武田家滅亡後は主君を次々と変える変幻自在の外交術で「表裏比興の者(裏表が激しく油断ならない者)」と恐れられました。彼を語る上で欠かせないのが、自ら築城した上田城での戦いです。なんと少数の兵で、強大な徳川軍を二度もボコボコに撃退しました(上田合戦)。関ヶ原の戦いでは真田家を残すために親子が敵味方に分かれる「犬伏の別れ」を決断。最後は九度山に幽閉されて無念の死を遂げますが、その神がかった知略と反骨精神は、息子の真田幸村(信繁)へと鮮やかに受け継がれました!
1547年、信濃国(長野県)の真田幸隆の三男として生まれました。幼い頃から武田信玄の人質として甲府へ送られますが、その天才的な才能を信玄に見出されます。「我が両眼の如き者(自分の両目と同じくらい大切な存在)」とベタ褒めされ、信玄のそばで直々に軍略や政治のノウハウを徹底的に叩き込まれました。この英才教育が、のちの稀代の戦術家を育て上げたのです。
長篠の戦いで二人の兄が戦死したため、急遽真田家の当主となります。しかし1582年、主君である武田家が織田信長によって滅ぼされてしまいます!後ろ盾を失った小さな真田家は、周囲を北条、上杉、徳川といった巨大な大名に囲まれる絶体絶命のピンチに。ここから、昌幸の「家と領地を守るための、血の滲むようなサバイバルゲーム」が幕を開けます。
生き残るため、昌幸は信じられないスピードで主君を変えていきます。織田、北条、徳川、上杉と、その時々で一番強い相手に味方し、形勢が悪くなるとすぐに寝返るという離れ業をやってのけました。この油断ならない態度から、豊臣秀吉には「表裏比興の者(ひょうりひきょうのもの:裏表が激しく、食えないくせ者)」と評されましたが、これは乱世を生き抜くための究極の処世術だったのです。
徳川家康の家臣となっていた頃、昌幸は「上杉から領地を守るため」という名目で、なんと家康にお金を出させて自分の新しいお城「上田城」を築城してしまいます!千曲川の支流を堀として利用した、非常に防御力の高い実践的なお城でした。のちにこの城で、お金を出してくれた徳川軍を二度もボコボコにすることになるのだから、歴史は皮肉です。
1585年、領地の問題で家康と対立した昌幸は徳川家から離反し、上杉家と手を結びます。激怒した家康は約7000の大軍を上田城へ差し向けました(第一次上田合戦)。しかし昌幸はわずか2000の兵で籠城し、城下町に迷い込ませてからの一斉射撃や、川の堤防を決壊させるなどの神がかったゲリラ戦法で徳川軍を撃退!その名を全国に轟かせました。
第一次上田合戦での見事な戦いぶりを見た豊臣秀吉は、昌幸の才能を高く評価して家臣に迎えます。秀吉のバックアップを得たことで、真田家はようやく大名としての地位を安定させることができました。秀吉の小田原征伐にも参加し、北条家の拠点であった松井田城などを持ち前の知略で次々と攻略し、天下統一に大きく貢献しました。
1600年、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発します。下野国(栃木県)の犬伏という場所で、昌幸と二人の息子(信之・幸村)は歴史に残る家族会議を開きました。協議の結果、父・昌幸と次男・幸村は西軍(石田三成)へ、長男・信之は東軍(徳川家康)へと別れて戦うことを決断します。どちらが勝っても真田の血脈を残すための、涙ぐましいサバイバル戦略でした。
西軍についた昌幸と幸村は上田城に戻り、中山道を通って関ヶ原へ向かおうとする徳川秀忠(家康の息子)の約3万8千もの超大軍を迎え撃ちます(第二次上田合戦)。昌幸は「降伏する」と嘘をついて時間を稼いだり、挑発して城に引きつけたりと、またしても変幻自在の戦術で徳川軍を翻弄!完全に足止めし、秀忠を関ヶ原の本戦に大遅刻させるという大金星を挙げました。
しかし、関ヶ原の本戦では西軍があっけなく負けてしまいます。本来なら死刑になるところですが、東軍についた長男・信之の必死の命乞いにより、昌幸と幸村は紀伊国(和歌山県)の九度山(くどやま)という山奥へ流罪(島流し)となりました。かつて天下を揺るがした知将は、一転して外部との接触を絶たれ、監視の目を気にしながらの長く苦しい幽閉生活を送ることになります。
幽閉生活は10年以上にも及び、生活は貧しく、昌幸は国許の信之に「お金を送ってくれ」と何度も手紙を書いています。「もう一度戦場で采配を振るいたい」という執念を燃やし続けましたが、家康からの許しが出ることはなく、1611年に無念の病死を遂げました(享年65)。しかし、彼の天才的な軍略と不屈の精神は次男・幸村に完全に受け継がれ、のちの大坂の陣で徳川家を震え上がらせることになります。