1567年、信濃国(長野県)の天才的な戦術家である真田昌幸の次男として生まれました。当時の真田家は小さな勢力だったため、生き残るために武田信玄、上杉景勝、そして豊臣秀吉と、次々と強い大名に従わなければなりませんでした。そのため若き日の幸村は「人質」として上杉家や豊臣家を転々とする日々を送ります。しかし、この生活の中で秀吉に才能を見出され、全国レベルの政治や戦術を学ぶ大きなチャンスを得たのです。
人質として大坂城に入った幸村は、秀吉のそばで護衛などを務める「馬廻衆(うままわりしゅう)」として仕えるようになります。秀吉は幸村の才能をとても気に入り、豊臣家の有力な家臣(大谷吉継など)の娘を妻として迎えさせました。父・昌幸の知略を受け継ぎながらも、豊臣家の中心で天下人のスケールの大きな政治を間近で見た経験が、のちの彼の義理堅く真っ直ぐな生き方を形作っていくことになります。
時代は前後しますが、1585年に父・昌幸が徳川家康と対立し、第一次上田合戦が勃発しました!数千の真田軍に対し、徳川軍はなんと7千以上の大軍。しかし、真田家は上田城(長野県)の地の利を活かした見事なゲリラ戦法やワナを仕掛け、幸村も父を助けて見事に徳川の大軍をボロ負けさせました!この戦いで「真田は小さくてもメチャクチャ強いぞ!」と全国にその名を轟かせ、家康にとって真田は最大のトラウマとなります。
豊臣秀吉の天下統一の総仕上げである小田原征伐にも父と共に参加し、真田家は豊臣政権下で安定した大名として認められます。しかし1598年に秀吉が亡くなると、世の中の空気は一変します。ナンバー2の実力者であった徳川家康が、豊臣家のルールを無視して天下を奪おうと動き出したのです。幸村の妻の父である大谷吉継や、石田三成らが家康に反発し、日本は再び真っ二つに割れる大戦争へと突き進んでいきます。
1600年、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こります。ここで真田家は、歴史に残る究極の決断「犬伏の別れ(いぬぶしのわかれ)」を迫られました。なんと、父の昌幸と幸村は「西軍(石田三成)」に、兄の真田信之は「東軍(家康)」に分かれて戦うことになったのです!これは、どちらが勝っても真田の血筋(家)を残すための、涙ぐましいサバイバル戦略でした。親子と兄弟が敵味方に分かれる、戦国時代ならではの悲劇です。
西軍についた幸村と父・昌幸は、上田城に立てこもり、徳川家康の息子・徳川秀忠が率いる約3万8千もの超大軍を迎え撃ちます(第二次上田合戦)。真田軍はわずか数千でしたが、挑発して敵を城に引きつけ、川の水をせき止めて一気に流すなどの神がかった戦術で徳川軍を完全に足止めしました!このせいで秀忠の軍は関ヶ原の本戦に大遅刻してしまい、家康を激怒させるという大金星を挙げたのです。
しかし、関ヶ原の本戦では西軍が負けてしまいました。東軍についた兄・信之の必死の命乞いのおかげで死刑は免れましたが、紀伊国(和歌山県)の九度山(くどやま)という山奥へ流罪(島流し)にされてしまいます。ここでなんと14年間も、お金がなく常に監視されるという長く苦しい生活を送ることになります。偉大な父・昌幸も、打倒徳川の夢を果たせないまま、この幽閉生活の中で無念の病死を遂げてしまいました。
1614年、ついに家康と豊臣秀頼が激突する大坂冬の陣が勃発します!豊臣家からスカウトを受けた幸村は、九度山を脱出して大坂城へ入城しました。彼は城の弱点であった南側に、真田丸(さなだまる)と呼ばれる巨大な防御要塞(出城)を築き上げます。そして、攻めてくる徳川の大軍を鉄砲で蜂の巣にし、またしても家康に大打撃を与えたのです!この無双の大活躍で、彼の名前は一気に全国のスターへと跳ね上がりました。
翌1615年の大坂夏の陣。堀を埋められてしまった豊臣軍は、野外での絶望的な最終決戦に挑みます。幸村は、自分の部隊の鎧や兜、旗などをすべて真っ赤に統一した「真田の赤備え(あかぞなえ)」を編成しました。赤は戦場で最も目立つ色であり、「一歩も引かずに戦い抜く!」という強烈な覚悟の表れでした。真っ赤に燃える真田の軍団は、徳川軍にとってまさに恐怖の象徴として戦場を駆け抜けました。
大坂夏の陣の最終局面、幸村は家康の本陣に向かって命がけの猛突撃を仕掛けました!なんと家康の馬印(大将の旗)をなぎ倒し、家康本人に「もう切腹するしかない…」と二度も覚悟させるほど限界まで追い詰めます。最後は力尽きて討ち死にしますが、その凄まじい戦いぶりから「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と称賛されました。負けを悟りながらも義を貫き通した彼の姿は、永遠の伝説となっています。