1926年、東京で生まれますが、幼い頃に両親が離婚し、親戚をたらい回しにされるなど不遇な環境で育ちました。孤独な少年時代の中で、彼にとって唯一の心の救いとなったのが、古代の土器や石器を拾い集めて古代人の生活を想像することでした。
戦後、群馬県の桐生市周辺で自転車に乗って納豆や小間物を売る行商人としてその日暮らしの生活を送ります。貧しい生活の中でも、暇を見つけては赤城山麓の切り通し(崖)を観察し、独学で考古学の研究を続けていました。
当時の日本の考古学界(アカデミズム)では、「火山灰が降り積もった赤土(関東ローム層)の時代(更新世)には、日本列島に人類は住んでいなかった」というのが絶対的な常識であり、誰も赤土の中から石器が出るとは思っていませんでした。
1946年、行商の途中で群馬県新田郡笠懸村(現在のみどり市)の「岩宿(いわじゅく)」という場所の切通しを通りかかった際、関東ローム層の赤土の断面から、明らかに人工的に割られた形跡のある黒曜石の破片を発見します!
「赤土の中にも石器があるはずだ!」と確信を持った相沢は岩宿に通い詰め、ついに1949年、関東ローム層の中から完全な形をした旧石器時代の石槍(槍先形尖頭器)を掘り出しました。日本にも旧石器時代が存在したことを示す決定的な証拠でした。
彼はこの歴史的大発見を携えて東京の明治大学へ向かい、考古学者の芹沢長介や杉原荘介に石器を見せました。当初は半信半疑だった学者たちも、その石器の鋭さと地層のスケッチを見て色めき立ち、本格的な調査に乗り出します。
明治大学の調査団が岩宿遺跡の本格的な発掘調査を行い、関東ローム層から打製石器が出土することを正式に確認。これにより、「日本に旧石器時代は存在しない」という定説が完全に覆り、日本の歴史が数万年も遡ることになりました!
しかし、大学が発表した調査報告書では、「アマチュアの行商人」であった相沢の功績は意図的に小さく扱われ、「遺跡の存在を教えただけの偶然の発見者」程度にしか記されませんでした。権威主義的な学界からの冷たい差別に彼は深く傷つきます。
学界からは冷遇されたものの、彼がたった一人で歴史を覆した事実は次第に世間に知れ渡り、高く評価されるようになります。1967年には、その在野での偉大な功績が讃えられ、「吉川英治文化賞」を受賞して見事に名誉を回復しました。
自身の発見の記録を綴った著書『岩宿の発見』は多くの人々に深い感動を与えました。1989年に62歳で亡くなるまで、生涯を「在野の考古学者」として貫き、学歴や権威に屈することなく、情熱だけで歴史の真実を掘り起こした不屈の偉人です。