1053年、後三条天皇の第一皇子として生まれました。父・後三条天皇は、実に170年ぶりに「藤原氏を母に持たない(外戚としない)天皇」として即位し、藤原氏の権力を抑え込もうとしました。白河天皇もその強い意志を受け継いで1073年に即位します。
1086年、まだ8歳だった実の息子(堀河天皇)に早々と天皇の位を譲り、「上皇(太上天皇)」となります。これは、藤原氏が天皇の摂政や関白として政治に口出しする「摂関政治」を完全に防ぐための画期的な作戦でした。ここから「院政」という新しい政治システムが始まります。
天皇を引退しても政治の実権は手放さず、上皇がいる場所(院)に独自の役所を開きました。上皇の命令書である「院宣(いんぜん)」は、現在の天皇の命令すらも上回る絶対的な力を持つようになり、朝廷のすべてを自分の思い通りに動かしました。
1096年、最愛の娘が亡くなった悲しみから仏門に入り、出家して「法皇(白河法皇)」となります。仏教を深く信仰し、莫大な国家予算をつぎ込んで「法勝寺」などの巨大な寺院(六勝寺)を次々と建立し、仏教の力でも自らの権威を見せつけました。
彼の絶対的な権力を示す有名な言葉があります。「私の思い通りにならないものは、賀茂川の水(たびたび氾濫する川)、双六の賽(サイコロの目)、そして山法師(強訴をしてくる比叡山延暦寺の僧兵)の3つだけだ」と豪語するほど、天下を完全に掌握していました。
唯一の悩みであった「山法師(僧兵)」の激しい抗議デモ(強訴)から御所を守るため、腕っぷしの強いボディーガード集団「北面武士(ほくめんのぶし)」を組織しました。源義家や平正盛などの武士が起用され、これが武士が歴史の表舞台へと躍り出る決定的なキッカケとなります。
従来の貴族にとらわれない人事を行い、特に伊勢平氏の平正盛・忠盛父子を重用して海賊討伐などを任せました。忠盛に日宋貿易の管理を任せたことは、後の平清盛の時代に平氏が莫大な富と権力を握る大きな伏線となっていきます。
養女として育てた美しい女性・藤原璋子(待賢門院)を異常なほど寵愛し、なんと自分の孫である鳥羽天皇と結婚させました。二人の間に生まれた崇徳天皇は、実は白河法皇の子供ではないかという「叔父子(おじご)」の噂が囁かれ、皇室内にドロドロの愛憎劇を生み出しました。
堀河天皇、鳥羽天皇、崇徳天皇という3代の天皇の時代を通じて、実に43年間にもわたって日本の絶対的な支配者として君臨しました。彼の築き上げた「院政」のシステムは、その後、鎌倉幕府が成立するまでの間、日本の政治の基本構造として長く定着することになります。
1129年、77歳でその強烈な生涯を閉じました。彼が力技で押さえつけていた皇室内の愛憎と対立(特に鳥羽上皇と崇徳天皇の確執)は、彼の死後に一気に爆発し、やがて武士の世を決定づける大内乱「保元の乱」へと繋がっていくのです。