「賄賂政治家」という悪名で語られがちですが、実は近代日本の資本主義を100年も先取りしていた超・先進的な経済改革者です!足軽上がりという低い身分から、第10代将軍・徳川家治の絶対的な信頼を得て幕府の最高職である「老中」にまで上り詰めました。農民からの年貢(米)に頼る古い財政に見切りをつけ、商人に株仲間(独占組合)を作らせて税金(運上金・冥加金)を徴収するという画期的な「重商主義」を推し進めました。さらに印旛沼干拓などの大規模な公共事業や、ロシアの南下を見据えた蝦夷地探検など、スケールの大きすぎる国家プロジェクトを次々と立案。平賀源内など新しい才能も積極的に支援しました。しかし、天明の大飢饉という未曾有の自然災害や息子の暗殺、そして松平定信ら保守派の反発に遭って無念の失脚。時代を先取りしすぎたゆえに潰されてしまった、不遇の天才政治家のストーリーです!
1719年、紀州藩の足軽から幕府の身分の低い役人へと成り上がった父(田沼意行)の長男として、江戸に生まれました。意次自身も非常に優秀で気が利き、のちに第10代将軍となる徳川家治の小姓(身の回りのお世話係)として仕え、若き家治から絶対的な信頼と寵愛を獲得していきます。
家治が将軍になると、意次の出世街道が爆発します!将軍の側近である「側用人」となり、ついには幕府の政治のトップである「老中」にまで大出世を果たしました。足軽の家系から、遠江国相良(静岡県)5万7千石の大名にまで成り上がったのは、江戸時代の身分制度の中ではまさに奇跡的な特例でした。
老中となった意次は、農民からお米(年貢)を取り立てるだけの古い幕府のシステムが限界を迎えていることを見抜きます。「これからは商業の時代だ!」と、商人たちに「株仲間」という独占的な営業権を認める代わりに、幕府に税金(運上金・冥加金)を納めさせるという、非常に近代的な経済政策(重商主義)を推し進めました。
税収を増やすため、銅、真鍮、朝鮮人参などの「専売制(幕府が独占して販売する仕組み)」を強化して大きな利益を上げました。さらに長崎での外国貿易にも力を入れ、俵物(アワビやフカヒレなどの海産物)を清(中国)へ大量に輸出し、代わりに金や銀を日本へ輸入して国内の通貨不足を解消しようと試みました。
農業の生産力を上げるため、下総国(千葉県)にある巨大な印旛沼や手賀沼の干拓(水を抜いて田んぼにする工事)という超巨大な土木工事に挑戦しました。しかも、幕府のお金だけでなく、大商人たちから資金を集めて開発させるという、現代の「官民共同プロジェクト(民活)」をこの時代にすでに行っていたのです。
意次のスケールの大きさは北海道にまで及びます。ロシアが北から迫ってきているという情報を得ると、最上徳内(もがみ とくない)らを蝦夷地へ探検に派遣しました。単なる国防だけでなく「蝦夷地を開拓してロシアと貿易をすれば、幕府はもっと豊かになる!」という、当時の常識を覆す壮大なビジョンを持っていました。
意次の時代(天明期)は、経済が潤って非常に自由で活気のある文化が花開きました。意次自身も身分にとらわれず実力ある者を評価したため、『解体新書』で有名な杉田玄白や、天才発明家の平賀源内などが活躍できました。意次は源内の才能を愛し、個人的なパトロンとして彼を支援していたとも言われています。
商業を活発にした結果、商人や役人の間でお金や付け届けが飛び交うようになり、「田沼は賄賂ばかりもらっている」という悪名が定着してしまいました。確かに賄賂はありましたが、それは当時の政治の「常識(礼儀)」でもありました。身分の低い彼の大出世や新しい政策を妬んだ保守派の武士たちによって、悪評が極端に誇張された面が大きいのです。
改革は順調に見えましたが、自然が彼に牙を剥きます。浅間山の大噴火や異常気象により「天明の大飢饉」が発生し、餓死者や打ちこわし(暴動)が多発。さらに1784年、意次の後継者として大活躍していた優秀な息子・田沼意知(おきとも)が、江戸城内で恨みを持つ武士に暗殺されるという悲劇に見舞われ、意次は激しいショックを受けました。
1786年、最大の理解者であった将軍・家治が亡くなると、意次の運命は尽きます。「昔の厳しい政治に戻せ!」と主張する松平定信ら保守派の逆襲に遭い、老中をクビになり、領地や財産も没収されてしまいました。その2年後に失意の中でこの世を去ります。彼が夢見た「商業を中心とする近代国家」の構想は、明治維新まで約100年間、歴史の闇に埋もれることになりました。