1862年、土佐国(高知県)の裕福な造り酒屋の跡取りとして生まれます。幼い頃から家業よりも裏山の自然に夢中で、毎日草花に話しかけながら植物を観察する、不思議で好奇心旺盛な少年時代を過ごしました。
新しくできた小学校に入学しますが、「学校の勉強は退屈だ。自分が知りたいのは植物のことだけだ!」と、なんとわずか2年で自主退学してしまいます。以降、英語や植物学の専門書を買い集め、完全な独学で圧倒的な知識を身につけていきました。
22歳で本格的な研究のために上京し、東京大学の植物学教室を訪ねます。当時の矢田部良吉教授は、学歴ゼロの青年の図抜けた知識と情熱に驚嘆し、特例として教室への出入りと文献の使用を許可しました。ここから彼の才能が一気に開花します!
1889年、自ら採集した植物を研究し、友人と共に新種「ヤマトグサ」を発表します。それまで日本の植物の学名は外国人(西洋の学者)がつけていましたが、日本人が国内の学術誌で初めて学名を発表したという、日本の植物学の夜明けとなる大偉業でした。
彼は植物の構造を完璧に理解しており、ルーペと顕微鏡を駆使して描く「植物図」は、世界中の学者を驚愕させるほど精密かつ芸術的でした。植物の毛一本に至るまで正確に描かれた図は、今でも学術的に極めて高い価値を持っています。
研究や書籍の出版に私財を湯水のように注ぎ込んだため、実家の財産を食いつぶし、莫大な借金を抱えて極貧生活に陥ります。しかし、妻の壽衛(すえ)は文句一つ言わず、質屋通いや料亭の切り盛りをして夫の研究を命懸けで支え抜きました。
世界的な発見(ムジナモの開花など)を次々と発表して名声が高まると、逆に大学の教授陣から嫉妬や反感を買い、「教室への出入り禁止」を宣告されて研究の場を奪われるという絶体絶命のピンチを何度も経験しました。
1928年、54歳の若さで亡くなった愛妻・壽衛への深い感謝と哀悼の意を込め、自身が仙台で発見した新種の笹に「スエコザサ」という和名をつけました。「家計を支えてくれた妻がいなければ、私の植物学は完成しなかった」という永遠の愛の証です。
東大の助手や講師を長く務めながらも、学歴がないために不遇な扱いを受けてきました。しかし1927年、その圧倒的な業績がついに評価され、65歳にして東京帝国大学から「理学博士」の学位を授与されました。不屈の独学が権威を打ち破った瞬間です。
1940年に集大成とも言える『牧野日本植物図鑑』を出版。晩年になっても全国を飛び回って植物採集を続け、1957年に94歳で大往生を遂げました。死後には文化勲章が贈られ、彼の膨大な標本は現在も「牧野植物園」で大切に保管されています。