1147年、源氏のリーダーである源義朝の三男として現在の愛知県で生まれます。母親は熱田神宮の大宮司(一番偉い神主さん)の娘という大変身分の高い家柄でした。そのため頼朝は「源氏の正統な後継者」として、幼い頃から周りの大きな期待を背負って大切に育てられました。将来は源氏を引っ張る立派な武士になるはずでしたが、彼が13歳の時に運命を大きく変える大事件が起こります。ここから、頼朝の長く苦しいサバイバル生活が幕を開けることになるのです。
1159年、政治の実権をめぐる争い平治の乱が勃発!お父さんの義朝はライバルの平清盛に敗れ、頼朝も敵に捕まってしまいます。本来なら死罪になるところでしたが、清盛のお母さんが「亡くなった自分の息子に似ているから」と必死に命乞いをしてくれたおかげで奇跡的に死罪を免れました。その代わり、伊豆国(現在の静岡県)へ流罪(島流し)という重い罰を受けます。エリート人生から一転、敵の監視に怯えながら過ごす孤独で先の見えないドン底の生活が始まりました。
伊豆での流され生活はなんと20年近くも続きました。そんな暗い日々の中で、頼朝の監視役だった地元の豪族・北条時政の娘、北条政子と劇的な恋に落ちます。「罪人と結婚するなんて絶対にダメだ!」と時政は大激怒しましたが、政子は親の反対を押し切って、嵐の夜に頼朝のもとへ駆け落ちしたと言われています。二人は強い絆で結ばれて結婚し、政子の実家である北条氏は頼朝にとって最大の味方になりました。政子はこの先も頼朝を力強く支え続ける「日本一強い奥さん」になっていきます。
1180年、歴史が大きく動きます!後白河法皇の息子である以仁王から、「威張っている悪い平家を倒せ!」という手紙(以仁王の令旨)が全国の源氏に届いたのです。流されてから20年、じっと耐え忍んでいた頼朝は「今こそ源氏の誇りを取り戻す時だ!」とついに立ち上がります。奥さんの政子やお義父さんの北条時政たちと一緒に、少人数の兵を挙げて平家を倒す戦い(治承・寿永の乱)をスタートさせました。テストによく出る令旨は、頼朝が動く最大のキッカケです。
意気揚々と兵を挙げた頼朝ですが、最初の石橋山の戦いで平家側の大軍にボロ負けしてしまいます。わずかな家臣と山の中へ逃げ込み、暗い洞窟に身を潜めました。敵の追手である梶原景時が洞窟の中を覗き込み、「あ!頼朝が…」と見つけますが、なぜか景時は「ここには誰もいないぞ!」と嘘をついてわざと見逃してくれたのです。もしここで見つかっていたら、鎌倉幕府は生まれていませんでした。九死に一生を得た頼朝は、小舟に乗って千葉県へと逃げ延びます。
千葉県に逃げ延びた頼朝は、関東の武士たちに「私と一緒に平家を倒して、新しい世の中を作ろう!」と呼びかけました。平家の政治に不満を持っていた武士たちが次々と集まり、大軍に膨れ上がります。そして、海と山に囲まれて守りに強い鎌倉に入り、ここを本拠地に定めました。関東の武士たち(御家人)に土地を保証してあげることで、強い信頼関係(御恩と奉公)で結ばれた武士のグループを作り上げたのです。これがのちの幕府のベースになっていきます。
頼朝が静岡県の黄瀬川に陣を敷いていた時、一人の若者が「お兄ちゃん!」と遠く岩手県から駆けつけてきました。幼い頃に生き別れた異母弟の源義経です。二人は涙を流して再会を喜び合いました。戦いの天才である義経や、もう一人の弟・源範頼に軍隊の指揮を任せることで、頼朝自身は鎌倉から動かずに、政治の仕組みづくりや武士たちをまとめることに集中できるようになります。適材適所で役割分担をしたことが、源氏が平家に勝てた大きな理由の一つと言えるでしょう。
1185年、山口県の壇ノ浦の戦いで義経が大活躍し、ついに長年の宿敵・平家を滅ぼすことに成功します!しかしここで大問題が発生。義経が頼朝の許可をもらわずに、朝廷(天皇)から勝手にご褒美の役職をもらってしまったのです。「鎌倉のルールを守らない奴は、身内でも絶対に許さない!」と激怒した頼朝は、義経を鎌倉に入れることを拒否。ついには敵として指名手配し、岩手県の平泉まで追い詰めて自害させました。新しいルールを守るための、冷酷で悲しい決断でした。
義経が逃げ回っていた1185年、頼朝は「逃げた義経や悪い奴らを捕まえるため」という理由で、朝廷に迫って全国の国ごとに守護、荘園や公領ごとに地頭という役職を置く権利を認めさせました。守護は警察・軍隊の役割、地頭は土地の管理や税(年貢)を集める役割です。これによって、武士が全国をコントロールする仕組みが完成しました。「1185年(いいはこ作ろう)、守護・地頭の設置」は、鎌倉幕府の実質的なスタート地点とされる超重要キーワードです!
1192年(いいくに作ろう)、後白河法皇が亡くなった後、朝廷から武士のトップの称号である征夷大将軍に任命され、名実ともに武家政権が完成します。1199年に落馬が原因とされる謎の急死を遂げますが、彼が作り上げた「御恩と奉公」という武士同士の絆や、土地をベースにした政治システムは、この後の江戸時代が終わるまで約700年間も日本のベースになり続けました。島流しのドン底から天下人へと這い上がった、ものすごい執念と政治センスを持った偉人です。