鎌倉幕府の第3代将軍。お兄さんの頼家が追放され、わずか12歳で将軍になりました。しかし政治の実権はおじいちゃんの北条時政など北条氏に完全に握られており、お飾りの将軍でした(執権政治)。ドロドロの政治の世界に嫌気がさした彼は和歌の世界にのめり込み、テストに絶対出る金槐和歌集(きんかいわかしゅう)を作った天才歌人でもあります。朝廷と仲良くして武士として初めて右大臣にまで出世しますが、最後は暗殺されてしまい、源氏の将軍の血筋は途絶えてしまいました。
1192年、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝と北条政子の次男として誕生しました。幼い頃の名前は千幡といい、頼朝の弟など立派な家臣たちに見守られて大切に育てられます。本来ならお兄ちゃんの頼家が次の将軍になるため、実朝は将軍になる予定はなく、気楽な立場のはずでした。しかし、大人たちの激しい権力争いによってお兄ちゃんが失脚し、彼の運命は大きく狂わされていくことになります。平和な日々は長くは続きませんでした。
1203年、お兄ちゃんの第2代将軍・頼家が「十三人の合議制」で実権を奪われ、将軍の座をクビになって修善寺に閉じ込められてしまいます。そして、おじいちゃんである北条時政の強いゴリ押しによって、実朝はわずか12歳という若さで第3代征夷大将軍に就任しました。しかし、これは実朝本人が望んだことではありません。北条氏が幕府をコントロールするための、都合の良い操り人形(傀儡)としてトップに選ばれただけだったのです。孤独な少年将軍の誕生でした。
将軍にはなったものの、政治の本当のパワーは、おじいちゃんの北条時政や叔父の北条義時たちに完全に握られていました。この北条氏が将軍の代わりに政治を行う仕組みを執権政治(しっけんせいじ)と呼びます。実朝は会議に出ても自分の意見を言うことはできず、ただ大人たちの決めたことにハンコを押すだけのお飾り状態。血みどろの権力争いを繰り返す大人たちの醜い姿を見て、心優しい少年は次第に政治の世界に嫌気がさしていくのです。
1205年、さらなる悲劇が実朝を襲います。なんと、自分を将軍にしてくれたはずのおじいちゃん(北条時政)が、「実朝を暗殺して、別の新しい将軍を立てよう!」という恐ろしい計画(牧氏事件)を企てたのです!幸いにも、お母さんの北条政子と叔父の北条義時がこの計画にギリギリで気づいて実朝を助け出し、おじいちゃんを鎌倉から追放しました。身内すら信じられない恐ろしい環境の中で、実朝の心はますます人間不信に陥り、孤独を深めていきます。
武力で争い合う血生臭い政治の世界に限界と虚しさを感じた実朝は、争いのない美しい「和歌」の世界にドップリと没頭していくようになります。そして、京都にいる当時ナンバーワンの天才歌人・藤原定家(ふじわらの さだいえ)を先生として尊敬し、手紙のやり取りをして和歌の添削(お直し)をしてもらいました。定家からの教えをスポンジのように吸収した実朝。彼の隠された和歌の才能は、ここからメキメキと上達し、花開いていくことになります。
実朝は自分の作った素晴らしい和歌を集めて、金槐和歌集(きんかいわかしゅう)という本を完成させました!これは歴史のテストで絶対に出る超重要キーワードです。ただ綺麗な言葉を並べるだけでなく、『万葉集』のような力強くてスケールの大きな歌風を取り入れた天才的な作品ばかりが収められています。政治の世界では北条氏の操り人形でしたが、芸術の世界では自分の豊かな感情を大爆発させ、日本を代表する偉大な歌人として歴史に名前を永遠に刻んだのです。
実朝は和歌だけでなく、京都の朝廷(天皇や上皇)の文化にも強く憧れていました。当時の朝廷のトップである後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)とも仲良くし、朝廷のルールや文化を積極的に鎌倉へ取り入れます。上皇からも「実朝はなんて素直で賢い若者なんだ!」と気に入られ、実朝の官位(役職のランク)は異例の猛スピードでどんどん出世していきました。朝廷と幕府の絆が深まり、実朝のもとで平和な時代が来るかに見えましたが、関東の武士たちの思いは違ったのです。
1218年、実朝は武士としては日本の歴史上で初めてとなる「右大臣(うだいじん)」という朝廷の超エリート役職にまで出世します!しかし、関東の武士(御家人)たちはこの状況に強い不安と不満を持っていました。「将軍様は京都の貴族のマネばかりして、我々関東の武士を忘れてしまったのではないか…」。実朝が朝廷に近づけば近づくほど、彼を支えるはずの鎌倉の武士たちとの心の距離はどんどん離れていってしまい、不穏な空気が鎌倉を包み込みます。
朝廷文化だけでなく、中国(宋)の文化にも強い憧れを持っていた実朝は、「自分も宋に渡ってみたい!」と壮大な夢を見るようになります。そして、鎌倉の由比ヶ浜に宋へ渡るための巨大な船を作らせました。いざ完成して海へ浮かべようとしましたが、なんと船が大きくて重すぎたため、砂浜からピクリとも動かず、海に浮かべることすらできずに計画は大失敗!現実逃避とも言えるこのスケールの大きな失敗は、鎌倉で居場所を失っていた彼の孤独な心を象徴しているようです。
1219年、右大臣になったお祝いの儀式のため、雪の降る鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)へ向かいます。その帰り道、大イチョウの木の陰から飛び出してきた暗殺者に襲われ、命を落としてしまいました。犯人は、兄・頼家の息子である公暁(くぎょう)で、「親の敵!」と勘違いしての犯行でした。享年28歳。政治の争いに巻き込まれ続けた悲劇の将軍の死により、初代・頼朝から続いた源氏の将軍の血筋は、わずか3代で完全に途絶えてしまったのです。