1907年、地質学者の小川琢治の三男として東京に生まれ、幼い頃に京都へ移り住みます。祖父から徹底的に漢籍(中国の古典)の素読を叩き込まれ、これがのちの豊かな発想力の土台となりました。幼い頃は口数が少なく「イワンのばか」というあだ名をつけられていたそうです。
京都帝国大学(現在の京都大学)の物理学科に進学。そこで、のちに彼と同じくノーベル物理学賞を受賞することになる天才・朝永振一郎と同級生になります。最先端の「量子力学」を共に学び、切磋琢磨する最高のライバルであり親友となりました。
大学卒業後、原子の核をバラバラにさせずに強く結びつけている未知の「強い力(核力)」の解明に挑みます。毎晩のように不眠不休で考え抜き、ついに「電子と陽子の中間くらいの重さを持つ『新しい粒子』が力を媒介しているはずだ!」という画期的なひらめきに至りました。
1935年、わずか27歳でその画期的なアイデアをまとめた論文「素粒子の相互作用について(中間子論)」を英語で発表します。しかし、当時はまだ誰も見たことのない未知の素粒子を予言する内容だったため、世界の物理学界からはしばらくの間、完全に無視されてしまいました。
1937年、アメリカのアンダーソンらが宇宙線の中から「中間子と同じくらいの重さの未知の粒子(現在のミューオン)」を発見します!これによって「湯川の予言は本当だったのではないか!?」と、彼の中間子論が一気に世界中の物理学者から大注目を浴びるようになりました。
さらに1947年、イギリスのセシル・パウエルらの研究チームが、ついに湯川が予言した通りの性質を持つ「パイ中間子」を宇宙線の中から発見します!論文発表から12年の時を経て、彼の天才的な理論が100%正しかったことが完全証明された、科学史に残る歴史的瞬間でした。
この偉大な功績により、1949年に日本人として初めてノーベル物理学賞を受賞しました!第二次世界大戦で敗戦し、自信を喪失してどん底にあった日本国民にとって、このニュースは「日本人の頭脳は世界に通用する!」という途方もない希望と勇気をもたらしました。
戦後、アメリカのプリンストン高等研究所に招かれた際、あの天才アインシュタインと対面します。アインシュタインは湯川の手を強く握り締め、「原爆で罪のない日本人を苦しめてしまった」と涙ながらに謝罪しました。この出来事が、湯川を平和運動へと突き動かす大きな原動力となりました。
物理学者としての研究だけでなく、人類の平和のためにも行動を起こします。1955年、核兵器の廃絶と科学技術の平和利用を訴える「ラッセル・アインシュタイン宣言」に世界の天才科学者たちと共に署名し、パグウォッシュ会議の開催にも尽力するなど平和運動の最前線に立ちました。
科学者でありながら、生涯を通じて文学や和歌を深く愛しました。「未知の世界を探求する人々は、地図を持たない旅人である」という名言を残し、自らの直観と詩的な感性を大切にしました。1981年に74歳で亡くなるまで、知性と豊かな人間性で世界中から愛された偉大な物理学者です。