966年頃、和歌の名門である清原氏の家に生まれました。父・清原元輔(きよはらの もとすけ)は「梨壺の五人」として『万葉集』の解読などを任された当時の超一流の文化人です。この最高の教育環境の中で、彼女は和歌だけでなく、当時男性の学問とされていた漢文(中国の文学)の深い教養をスポンジのように吸収して育ちました。
若くして橘則光(たちばなの のりみつ)という役人と結婚し、息子(則長)を授かります。しかし、則光は脳筋といってもいいほど武骨で現実的なタイプであり、文学や和歌のロマンチストである清少納言とは全く価値観が合いませんでした。「話が通じない!」と愛想を尽かし、教養の違いを理由にあっさりと離婚してしまいます。
993年頃、28歳という当時としては「遅咲き(年上)」で、一条天皇の正妻である中宮定子(当時17歳)に女房として仕えることになります。最初は「私なんかが若い子たちの輪に入れるかしら…」と引きこもりがちで泣いてばかりいましたが、定子の優しさと明るさに救われ、徐々に持ち前の明るさと才能を発揮するようになります。
定子の周りには、いつも笑いと知的でハイセンスな会話が溢れていました。清少納言は得意の漢文の知識や、持ち前の鋭いツッコミ(ユーモア)を活かしてサロンの中心人物となります。男性貴族たちが彼女に知的なクイズを仕掛けてきても、見事な和歌や漢文の知識で完璧に打ち返すため、宮中の男たちも彼女に一目置くようになりました。
「春はあけぼの(春は夜明けが最高!)」。歴史のテストに必ず出る日本最古の随筆『枕草子』は、彼女の鋭い観察眼から生まれました。「〇〇なもの」というランキング形式で好きなものを語ったり、日常の「あるある」ネタを面白おかしく書き綴ったりと、1000年前の女性のリアルな感性が現代人にもビンビン伝わってくる、まさに平安時代のブログです!
彼女の頭の回転の速さを示す有名なエピソードです。雪が降るある日、定子が「香炉峰(こうろほう)の雪はどんな感じかしら?」とわざと中国の漢詩のクイズを出しました。周りの女房たちが「?」となっている中、清少納言はスッと立ち上がり、御簾(みす:ブラインド)を高く巻き上げました。漢詩の「香炉峰の雪は簾を撥げて看る」という正解を、言葉ではなく行動で完璧に実演してみせたのです!
しかし、華やかな日々は長くは続きません。定子の父である藤原道隆が病死すると、権力闘争に勝った藤原道長が台頭します。定子の兄弟たち(伊周・隆家)は不祥事を起こして左遷され、後ろ盾を失った定子は自ら髪を切って出家するという、絶望的な悲劇のどん底へと叩き落とされてしまいました。
一族が没落し、周囲が道長にすり寄っていく暗い宮中の中で、清少納言はあえて『枕草子』に「定子様のサロンはこんなにも素晴らしく、美しい!」という輝かしい思い出だけを書き連ねました。現実の悲惨さを一切書かず、定子の素晴らしさを後世に永遠に残すための、彼女なりの命がけの「戦い」と「忠誠心」だったのです。
1000年、一条天皇の寵愛を受け続けていた定子ですが、ついに難産のためにわずか24歳でこの世を去ってしまいます。最愛の主であり、自分の才能を世界で一番認めてくれた定子の死に、清少納言の悲しみは計り知れませんでした。定子の死後、彼女は宮中を去り、表舞台から完全に姿を消してしまいます。
彼女が宮中を去った数年後、道長の娘(彰子)の家庭教師としてやってきたのが紫式部です。紫式部は日記で清少納言を「得意げに漢字を書き散らしている痛い女」と激しく酷評しました。清少納言の晩年は夫と死別するなど孤独であったとも言われますが、彼女が定子のために残した『枕草子』は、1000年の時を超えて今もなお、日本文学の最高傑作として燦然と輝き続けています。