1530年頃、堺の三大豪商の一つである「天王寺屋」の当主・津田宗達の長男として誕生します。幼い頃から莫大な富と最高級の教養に囲まれて育ち、武家(織田家など)とも深い縁を持つ名門の出身でした。
父の宗達や、当時の天才茶人・武野紹鴎(たけの じょうおう)から直接、茶の湯の指導を受けました。天王寺屋が代々コレクションしてきた「天下の名物」と呼ばれる超高級な茶道具を日常的に使いこなし、若くして堺でも一流と認められる茶人になりました。
1568年に織田信長が上洛すると、今井宗久らと一緒に信長にアプローチをかけます。信長が権力誇示のために開催した「名物狩り(大名や豪商から名物道具を献上させるイベント)」の席において、宗及は名物道具の管理や鑑定などで重要な役割を果たしました。
1573年には信長から正式に「茶頭(さどう)」に任命されます。京都の相国寺などで開かれた信長の格式高い公式茶会を何度もプロデュースし、天下人となった信長の威厳を華やかに演出しました。
宗及は商人としてだけでなく、堺という自治都市を動かす最高幹部である「会合衆(えごうしゅう)」の一人として活躍しました。信長直属の代官のような立場としても堺の町を行政面から支え、商人でありながら政治にも深く関与しました。
1582年の本能寺の変の際、京都から逃げてきた明智光秀をもてなすという機転を見せましたが、光秀の敗北後はすぐさま豊臣秀吉に接近しました。この持ち前のサバイバル能力と機転の速さで、戦後の粛清を回避し、秀吉からも早々に信頼を勝ち取りました。
秀吉の政権下でも引き続き「茶頭」に就任し、千利休、今井宗久と共に「天下の三茶頭」として活躍します。豪華な大坂城で開かれる数々の茶会を担当し、豊臣政権の文化的シンボルとしての役割を担いました。
1587年、秀吉が行った九州の島津氏討伐(九州征伐)には、茶頭として陣中に同行しました。殺伐とした戦場の前線において、陣中で茶会を開催することで、戦う武将たちの心を和ませるという政治的役割も見事に果たしました。
歴史的な大イベント「北野大茶湯」では、千利休らと共に茶会の構成をプロデュースしました。天王寺屋の専用ブースを構え、集まった数千人もの民衆や武士たちを相手に、最高のお茶を振る舞いました。
30年以上にわたって開催・参加した茶会の詳細を『宗及茶湯日記』に克明に記録しました。これが現代の歴史研究において、戦国武将たちの交友関係や当時の流行を知るための最高級の歴史史料となっており、1591年にその生涯を閉じました。