1609年、姫路藩主・池田利隆の長男として生まれました。祖父は「西国将軍」と呼ばれた池田輝政、そして祖母はなんと徳川家康の次女(督姫)という、徳川家の血を引く超ウルトラ名門のサラブレッドとして生を受けました。幼い頃から家康にも大変可愛がられたと言われています。
わずか5歳で父が急死し、姫路藩42万石を継ぎますが、「幼い大名に重要な拠点である姫路は任せられない」という幕府の判断で、鳥取藩32万石へ減封(左遷)されてしまいます。その後、従兄弟が跡継ぎなく亡くなったため、1632年に24歳で備前岡山藩31万石の藩主として国替えとなりました。
岡山藩主となった光政は、中江藤樹の弟子であり「陽明学」を極めた天才学者・熊沢蕃山(くまざわ ばんざん)と運命的な出会いを果たします。知識だけでなく「行動(実践)」を重んじる陽明学の教えに深く感動した光政は、身分の低かった蕃山を異例の高給で家臣として大抜擢しました。
「国を良くするためには、まず役人(武士)がしっかり学ばなければならない!」と考えた光政は、1641年に岡山城のそばに「花畠教場(はなばたけきょうじょう)」を設立します。これが、日本で最初の「藩校(各藩が作った武士のための学校)」だと言われており、教育立国の第一歩を踏み出しました。
光政の教育への情熱は武士だけに留まりません。「農民や庶民の子供たちにも学問をさせたい!」と、1670年に領内の閑静な谷間に「閑谷学校(しずたにがっこう)」を開校しました。庶民が学ぶ公立学校としては世界最古と言われ、その美しく頑丈な講堂は現在、日本の国宝に指定されています!
教育にはお金をかけましたが、自分自身の生活は超ストイックでした。「一汁一菜(ご飯と汁物とおかず一品)」をルール化して贅沢を徹底的に禁止。領民思いの政策でしたが、あまりにも倹約が厳しすぎたため、他国からは「備前岡山は食い詰め(ケチで窮屈だ)」と噂されるほどでした。
光政は儒学を重んじたため、当時の堕落した仏教に対しては超過激な弾圧(寺院整理)を行いました。「修行もせずに金儲けばかりしている坊主は許さん!」と、領内にあったお寺の約半分(1000ヶ所以上!)を強制的に廃止し、僧侶たちを還俗(一般人に戻す)させるというゴリゴリの強硬策を断行しました。
岡山の城下町はたびたび旭川の洪水に悩まされていました。光政は右腕の熊沢蕃山や津田永忠(つだ ながただ)らに命じて、洪水の水を逃がすための巨大な人工の川「百間川(ひゃっけんがわ)」の開削や、大規模な新田開発という超巨大公共事業を行い、藩の経済力と領民の生活を飛躍的に向上させました。
しかし、光政が傾倒する「陽明学」は、幕府が公式の学問としていた「朱子学」と対立するものでした。幕府から「岡山藩は怪しい学問を信奉しているのではないか?」と目をつけられ、強いプレッシャーをかけられます。藩を守るため、光政は泣く泣く最愛の右腕である熊沢蕃山を藩から追放せざるを得ませんでした。
晩年は家督を息子に譲って隠居し、1682年に74歳でこの世を去りました。彼が心血を注いだ教育の精神と土木事業は、その後の岡山藩の繁栄を長く支えました。自らを厳しく律し、領民のために生きたその姿は、水戸藩の徳川光圀、会津藩の保科正之とともに「江戸初期の三名君」として日本史に永遠に刻まれています。