1834年、肥前国(佐賀県)の貧しい下級武士の長男として生まれます。家計を助けるために幼い頃から苦労しましたが、藩校「弘道館」で学び、その桁外れの記憶力と論理的な思考力で「佐賀の天才」として頭角を現しました。
幕末の激動期、藩の消極的な姿勢に我慢できず、29歳の時に死罪を覚悟で佐賀藩を「脱藩」し、京都へ飛び出します!その後捕まって佐賀に連れ戻され、無期限の幽閉処分(永蟄居)となりますが、この期間に膨大な本を読み漁り、国家の構想を練り上げました。
戊辰戦争で明治新政府軍が江戸城を接収した際、大混乱の中で彼は「幕府の膨大な裁判記録や行政文書」が燃やされそうになるのを必死に防ぎました。この文書が、のちの近代国家建設のための超重要なデータベースとなったのです。
新政府に入ると、その圧倒的な知識と事務処理能力で出世街道を爆走し、司法部門のトップである「司法卿(しほうきょう)」に就任します。フランスの法律をベースに、日本初の近代的な刑法や民法を驚異的なスピードで作り上げました。
法律だけでなく、近代的な警察制度の整備にも尽力しました。特に、指名手配犯を捕まえるために「顔写真」を全国に配布するという、当時としては画期的な「写真手配」のシステムを日本で初めて導入したのも彼です。
彼は「法の下の平等」を絶対の信念とし、相手がどんな大物でも不正を許しませんでした。長州藩閥のドン・山県有朋らが関与した巨額の汚職事件(山城屋事件など)を徹底的に追及し、山県を辞職に追い込みますが、これが原因で政府内の恨みを買ってしまいます。
1873年、朝鮮への使節派遣を巡る「征韓論」論争で、大久保利通や岩倉具視らと真っ向から対立。西郷隆盛や板垣退助らと共に政府を辞職(下野)してしまいます(明治六年の政変)。近代国家の頭脳が、自ら政府を去るという痛恨の出来事でした。
故郷の佐賀へ戻ると、政府に不満を持つ不平士族たちから熱烈に担ぎ上げられてしまいます。争いを止めようとした彼でしたが、抑えきれずに反乱軍のリーダーとなり「佐賀の乱」が勃発。しかし、自らが制度を整えた近代的な政府軍の圧倒的な火力の前に敗北を喫します。
戦場から逃亡し、薩摩の西郷隆盛や土佐の板垣退助に決起を促すために奔走しますが断られます。そして逃亡の末に高知県で捕縛されますが、その決め手となったのは、なんとかつて彼自身が導入した「写真手配」のシステムでした。あまりにも皮肉な運命です。
政敵であった大久保利通は、江藤にまともな弁明の機会を与えず、自ら佐賀に乗り込んで強引に死刑判決を下しました。近代法治国家を目指した彼が、最も法を無視した暗黒裁判で斬首され、さらし首(梟首)にされるという、明治維新最大の悲劇的な最期を遂げました。