1794年、肥前国唐津藩(佐賀県)の藩主の長男として江戸で生まれました。非常に優秀で野心にあふれていた忠邦は、長崎警備の負担が重い唐津藩にいては幕府のトップ(老中)に出世できないと考え、なんと「先祖伝来の領地を捨ててでも、出世しやすい藩へ移りたい!」と幕府に裏工作を行い、遠江国浜松藩への国替えを強行しました。
浜松藩主となった後も、忠邦の出世欲は止まりません。老中になるための運動資金として、領民から重い税を絞り取り、幕府の有力者たちに莫大な賄賂(付け届け)を配りまくったと言われています。その執念が実り、寺社奉行、京都所司代などの要職を次々と歴任し、ついに幕府の最高職である老中へと登り詰めました。
当時の日本は、大御所・徳川家斉のもとで賄賂や贅沢が蔓延し、財政はボロボロ、さらに天保の大飢饉や大塩平八郎の乱が起きて幕府の権威は地に落ちていました。家斉の死後、第12代将軍・徳川家慶から「なんとかしてくれ!」と全権を委任された老中首座の忠邦は、幕府を救うための最後の大手術「天保の改革」をスタートさせます。
忠邦は「とにかく贅沢が悪い!」と、極端な質素倹約を徹底しました。華美な着物や高級な食事を禁止し、寄席(落語など)を閉鎖させ、歌舞伎役者や作家(為永春水や柳亭種彦など)を処罰!江戸の町から娯楽や笑いを徹底的に奪い去ったため、庶民からは「親より怖い水野の殿様」と激しく恨まれることになります。
物価が高騰している原因を「商人たちが『株仲間(独占組合)』を作って価格を操っているからだ」と考えた忠邦は、なんと株仲間をすべて強制的に解散させてしまいます!しかし、これにより長年築かれてきた商品の流通ネットワークが完全に崩壊してしまい、逆に経済が大混乱に陥るという大失敗を招いてしまいました。
農業を復興させて年貢(税収)を増やすため、江戸に流れ込んでいた農民たちを強制的に故郷の村へ帰らせる「人返しの法」を出しました。しかし、すでに江戸で生活基盤を築いていた人々にとってこれは死活問題であり、当然ながら大反発を食らい、期待したような効果を上げることはできませんでした。
国内の改革で大迷走する中、海外から「大国・清(中国)がイギリスにボロ負けした(アヘン戦争)」という衝撃的なニュースが飛び込んできます!「このまま外国船を大砲で撃ち払っていたら、日本もイギリスに滅ぼされる!」と焦った忠邦は、方針を180度転換し、遭難した外国船には水や燃料を与える「薪水給与令(天保の薪水給与令)」を出しました。
この強硬な改革を実働部隊として支えたのが、「妖怪」と恐れられた冷酷な腹心・鳥居耀蔵(とりい ようぞう)です。蛮社の獄などで多くの知識人を弾圧しました。一方で、庶民の味方として有名な北町奉行・遠山景元(遠山の金さん)は、忠邦や鳥居の過激な政策に真っ向から反対し、歌舞伎の存続を守るなどの抵抗を見せました。
改革の総仕上げとして、忠邦は最大の爆弾を投下します。江戸と大坂の周辺にある大名や旗本の領地を幕府に強制的に差し出させ、幕府の直轄地(天領)にしようとする「上知令(あげちれい)」を発令したのです!しかしこれは「先祖伝来の土地を奪うのか!」と、身内であるはずの武士たちから前代未聞の大反発を招いてしまいました。
上知令への反対運動は激しさを増し、なんと将軍・家慶までもが「上知令は撤回せよ」と見放してしまいます。さらに、最も信頼していた腹心の鳥居耀蔵までもが反対派に寝返って忠邦の裏情報を流出!四面楚歌となった忠邦は1843年に老中を罷免され、わずか2年あまりで失脚しました。失脚の際、江戸の庶民たちが喜びのあまり忠邦の屋敷に石を投げ込んだと言われています。