1521年、甲斐国(山梨県)の守護である武田信虎の長男として誕生しました。幼名は勝千代。幼い頃から武術だけでなく学問も得意な文武両道の御曹司で、その高い知性と器の大きさから、将来の甲斐国を背負うリーダーとして家臣や領民たちからも大きな期待を集めて育ちました。
1541年、まだ若かった信玄(当時は晴信)は、暴政を繰り返して家臣や領民を苦しめていた父・信虎を追放するという大決断を下します。父を駿河国(今川氏)へ送り出し、自らが武田家の第19代当主となりました。領国内の不満を解消して安定させ、戦国大名としての強固な土台を築き上げていきます。
信玄は、甲斐国から隣の信濃国(長野県)へと勢力を広げるため、果敢な侵攻を開始します。諏訪氏や村上氏といった信濃の強力な豪族たちが抵抗し、領地を巡る激しい戦いを展開しました。信玄の巧みな軍略と外交術によって、一歩ずつ信濃を支配下に置いていく、戦国大名としての実力を存分に発揮した時期です。
信濃の豪族たちは、信玄から領地を守るために越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼りました。これがキッカケとなり、1553年から北信濃の支配権を巡る、戦国史上最も有名な「川中島の戦い」が幕を開けます。お互いの実力を認め合いながらも、決着がつくことのない宿命の抗争が5回にもわたって繰り広げられました。
信玄は戦いだけでなく、外交の天才でもありました。背後の守りを固めて信濃攻略に専念するため、今川義元(駿河)、北条氏康(相模)という隣国の強敵たちと、互いの娘を嫁がせ合う強固な軍事同盟「甲駿相三国同盟」を結びます。これにより安全を確保した信玄は、さらに大きな戦いへと打って出る準備を整えました。
1561年、計5回ある川中島の戦いの中で、最も激しかった「第四次(八幡原)の戦い」が発生!上杉謙信軍によるまさかの奇襲を受け、信玄の本陣が大きなピンチに陥ります。しかし、信玄は冷静にこれを退け、伝説として残る「謙信との一騎打ち」の場面を迎えたとも言われる、戦国史屈指の名勝負となりました。
桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、信玄は同盟を破って駿河国への侵攻を決めます。しかし、今川氏と親密だった嫡男の義信はこれに大反対!信玄は領土拡大の野望のために、実の息子である義信を自害に追い込むという、非常に痛ましく悲劇的な決断を下さざるを得ませんでした。
1572年、室町幕府将軍・足利義昭からの「信長を討て!」という呼びかけ(信長包囲網)に応じ、信玄はついに上洛への「西上作戦」を開始します。織田信長と徳川家康を倒すため、武田最強の軍団を率いて、天下を取るための最後にして最大の勝負に挑みました。
遠江国(静岡県)の三方ヶ原(みかたがはら)で、織田家の援軍も含む徳川家康の軍勢と激突!圧倒的な軍事能力と、無敵を誇った武田の騎馬隊を駆使し、家康を完膚なきまでに打ち破ります。家康が命からがら逃げ出したこの戦いは、信玄の軍略が戦国最強であることを証明する歴史的な大勝でした。
しかし、信玄の命は尽きかけていました。上洛途中の信濃国の駒場で、持病が急速に悪化して53歳で病死してしまいます。「我が死を3年間は秘密にせよ」という、敵に付け入る隙を与えないための徹底した遺言を残して…。その死は、のちに天下統一を目指す織田信長にとっても、最大のライバルを失う歴史の転換点となりました。