1797年、江戸の八代洲河岸(現在の丸の内)で、幕府の火消し役(定火消)である安藤家の長男として生まれました。幼名は徳太郎。13歳で両親を亡くし、若くして家督と火消しの職を継ぐことになりますが、幼い頃から絵を描くことが大好きでした。
浮世絵師になる夢を諦めきれず、当時大人気だった歌川豊国の門を叩きますが、なんと「弟子がいっぱいだから」と入門を断られてしまいます!しかしこれが運命の分かれ道。叙情的で上品な絵を描く歌川豊広に入門を許され、15歳で「広重」の号を授かりました。
デビュー当初は先輩たちに倣って役者絵や美人画を描いていましたが、なかなかヒットしませんでした。当時は葛飾北斎や歌川国芳といった強烈な個性を持つ天才たちが大活躍していたためです。悩み抜いた広重は、やがて自分の持ち味である「風景画」へと活路を見出していきます。
1832年、広重に最大の転機が訪れます。幕府が朝廷に馬を献上する公式な行列(八朔御馬進献)に同行し、東海道を通って京都へ行くチャンスを掴んだのです(※諸説あり)。この道中で見た雄大な自然や人々のリアルな営みが、彼の芸術的な感性を爆発させました。
旅から帰った翌年、保永堂から『東海道五十三次』シリーズを発表!これが江戸の庶民の間で空前の大ヒットを記録します。北斎のような超人的で奇抜な構図ではなく、誰もが「あそこに行ってみたい」「こんな風景を見たことがある」と共感できる、親しみやすく叙情的な風景画を確立しました。
彼の絵の最大の魅力は、天候や時間の移ろいを描く天才的な表現力です。突然の夕立に慌てて走る人々を描いた「庄野(白雨)」や、深い雪に閉ざされた静寂を描いた「蒲原(夜之雪)」など、自然の猛威と美しさを詩的に描き出し、「雨と雪の詩人」と讃えられました。
当時輸入され始めたばかりの「ベロ藍(プルシアンブルー)」という新しい青色の絵の具を、広重は魔法のように使いこなしました。空や海、川を表現する際の、そのあまりにも美しく透明感のある青のグラデーションは、世界中で「ヒロシゲブルー」と呼ばれ高く評価されています。
晩年になってさらに表現は進化します。傑作シリーズ『名所江戸百景』では、画面のド真ん中に巨大な亀を配置したり、空飛ぶワシの視点から江戸の町を見下ろしたりと、まるで現代のカメラの「広角レンズ」や「魚眼レンズ」を使ったかのような超斬新な構図を連発しました!
彼の絵は海を渡り、西洋の美術界に大革命(ジャポニスム)を起こします。特に天才画家ゴッホは広重に異常なほど熱狂し、『名所江戸百景』の「亀戸梅屋舗」や「大はしあたけの夕立」の浮世絵を、なんとキャンバスに油絵でそっくりそのまま模写するほど深く敬愛していました。
1858年、江戸で猛威を振るっていたコロリ(コレラ)に感染し、62歳でこの世を去りました。死の直前、「東(江戸)に筆を置いて、これからはあの世(極楽浄土)の有名な名所を見に行こう」という、旅と風景を愛した彼らしい、最高に粋でロマンチックな辞世の句を残しました。