1798年、江戸日本橋の染物屋の息子として生まれました。幼名は井草芳三郎。実家が染物屋であったため、幼い頃から着物の鮮やかな色彩や大胆なデザインに囲まれて育ち、これが後年の彼の奇想天外な色彩感覚や構図のルーツとなりました。
幼い頃から絵の才能を発揮し、15歳で当時浮世絵界のトップに君臨していた初代歌川豊国に入門します。「国芳」という画号を与えられましたが、豊国の門下にはエリート兄弟子の歌川国貞(のちの三代豊国)などがおり、才能ひしめく厳しい環境でのスタートでした。
デビューしたものの、国芳の絵は全く売れませんでした。飛ぶ鳥を落とす勢いの兄弟子・国貞を横目に、国芳は極貧生活を強いられます。一時期は浮世絵だけでは食べていけず、ぼろぼろの着物で「畳の表替え(修繕)」の手伝いをしてなんとか糊口をしのぐという、涙ぐましい苦労を重ねました。
不遇の時代を耐え抜き、30歳を過ぎた頃についに大ブレイクの時が訪れます!当時流行していた中国の小説『水滸伝』の英雄たちを描いた『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』シリーズを発表。画面から飛び出してきそうなダイナミックで力強い武者絵は江戸っ子たちの心を鷲掴みにし、一躍トップスターへ躍り出ました。
国芳の想像力は留まるところを知りません。『相馬の古内裏』という作品では、画面の半分を占めるほどの「超巨大な骸骨」が御簾を破って覗き込むという、ホラー映画顔負けの超絶インパクトな構図を描き出しました。西洋の解剖学書を参考にしたとも言われるリアリズムが恐怖を際立たせています。
彼は筋金入りの「超・猫好き」でした!工房には常に十数匹の猫がうろつき、国芳自身も懐に猫を入れたまま絵を描いていたと言われています。猫を擬人化して役者に仕立てた絵や、猫の体で文字を形作る「猫の当て字」など、愛に溢れた猫の戯画(ギャグマンガ)を数多く残しました。
「みかけハこハゐがとんだいゝ人だ(見かけは怖いがとんだいい人だ)」という作品では、たくさんの裸の人間がアクロバティックに組み合わさって「一つの巨大な男の顔」を作っているという、だまし絵(アルチンボルド風)の手法を披露!その圧倒的な遊び心とアイデアで大衆を驚かせました。
老中・水野忠邦による「天保の改革」で、役者絵や美人画など「贅沢で娯楽的な浮世絵」が幕府から厳しく禁止されてしまいます。しかし反骨精神の塊である国芳は屈しません!妖怪や歴史上の人物の絵に見せかけて、幕府の政治を強烈に皮肉る「風刺画」を次々とゲリラ出版し、江戸っ子たちから大喝采を浴びました。
武者絵や妖怪絵だけでなく、西洋の銅版画にも強い関心を持っていました。西洋の遠近法や陰影法(光と影の表現)を独学で吸収し、自分なりのアレンジを加えて風景画の中に取り入れました。伝統に縛られず、常に新しい表現を模索し続ける貪欲なクリエイターでした。
晩年は中風(脳卒中)を患いながらも、最後まで絵への情熱を燃やし続け、65歳でこの世を去りました。彼が育て上げた弟子の中には、のちに「血みどろ絵」で幕末〜明治を席巻する月岡芳年や、狂気の天才・河鍋暁斎といった規格外の鬼才たちがおり、国芳のアバンギャルドな魂は次の世代へと熱く受け継がれました。