1834年、越前国(福井県)の福井藩で、代々藩医(お殿様の医者)を務める家系の長男として生まれました。幼い頃から非常に聡明であり、厳しい学問の環境の中で儒学や医学の基礎を叩き込まれました。
わずか15歳の時、自分を甘えから戒めるために『啓発録』という誓いの書を書き上げました。「去稚心(子供っぽさを捨てる)」「振気(気力を奮い立たせる)」「立志」「勉学」「択交友(良い友人を選ぶ)」の5カ条からなるこの書は、現代でも自己啓発のバイブルとして読み継がれています。
16歳で大坂へ遊学し、蘭学の第一人者である緒方洪庵がひらく「適塾」に入門します。ここでオランダ語や最新の西洋医学を猛勉強し、全国から集まった優秀な若者たちと切磋琢磨しながら、西洋の圧倒的な科学力と知識を吸収しました。
適塾で学ぶうちに、彼の関心は単なる医学にとどまらず、西洋列強がアジアに迫る「世界情勢」へと広がっていきました。「このままでは日本は植民地にされてしまう」という強い危機感を抱き、国防や政治の改革を真剣に考えるようになります。
江戸へ出てさらに学問を深めていた彼の並外れた才能は、福井藩主であった名君・松平春嶽の耳に届きます。春嶽は左内を藩医としてではなく「政治の側近」として大抜擢し、藩の学校である「明道館」の学監(校長)に任命して藩の教育改革を任せました。
江戸での活動中、薩摩藩の西郷隆盛と出会い、二人はすぐに意気投合します。体格も性格も全く違う二人でしたが、お互いの才能を深く認め合い、日本の未来のために藩の垣根を越えて固い絆で結ばれました。
第13代将軍・徳川家定の跡継ぎを巡る「将軍継嗣問題」が勃発すると、左内は英明な一橋慶喜(のちの徳川慶喜)を推す「一橋派」の最前線エースとして活躍!西郷らと連携して朝廷(京都)や幕府の有力者に猛烈なロビー活動を行いました。
彼の思想の凄さは、当時すでに「ロシアと同盟を結んでイギリスやアメリカの脅威に対抗すべきだ」という、極めて高度な地政学(世界戦略)を持っていたことです。ただの鎖国や攘夷ではなく、世界の中の日本を俯瞰できる超一級のインテリジェンスでした。
しかし、大老に就任した井伊直弼が「南紀派(徳川家茂推し)」として権力を握ると、一橋派は徹底的に弾圧されます(安政の大獄)。左内も危険人物として幕府に捕らえられ、江戸の伝馬町牢屋敷に投獄されてしまいました。
1859年、取り調べにおいて堂々と自分の信念を語りましたが、そのあまりの優秀さを幕府から恐れられ、ついに斬首の刑に処されました。享年26。彼の死を知った西郷隆盛は号泣し、生涯にわたって左内からの手紙を肌身離さず持ち歩いたと伝えられています。