1294年頃、河内国(現在の大阪府千早赤阪村)で生まれたとされています。彼の出自は謎に包まれていますが、当時の幕府の支配に従わない武装商人や土豪たちのネットワークを束ねる「悪党(あくとう)」と呼ばれる新興勢力のリーダーでした。水運や商業で豊かな財力を持ち、情報収集能力や地形を活かしたゲリラ戦法に圧倒的な強さを持っていました。
当時、鎌倉幕府を倒そうと計画していた後醍醐天皇は、ある日不思議な夢を見ます。「南に向かって伸びる枝が茂った大きな木の下に、天皇の座る席がある」という夢です。「木」に「南」と書けば「楠(くすのき)」になります。天皇はこの夢のお告げに従い、河内の豪族である楠木正成を呼び出しました。正成は天皇の熱い思いに打たれ、命を懸けて戦うことを誓約します。
1331年、正成は小高い山に急ごしらえで作った「下赤坂城」で挙兵します。数万の幕府軍が押し寄せますが、正成の兵はわずか500人!しかし、崖から大木や岩を落としたり、城壁に熱湯(または糞尿)をかけて敵が登れないようにしたりと、ゲリラ戦の達人である正成の奇策が次々と炸裂!幕府軍に大打撃を与え、「楠木恐るべし」と全国にその名を轟かせました。
しかし、圧倒的な数の差はいかんともしがたく、やがて赤坂城の食糧は尽きてしまいます。ここで正成は驚くべき作戦に出ました!巨大な穴を掘って城内で戦死した味方の死体を集め、城に火を放って「正成は全員と一緒に自害した」と見せかけて、密かに城から脱出したのです。幕府軍は「厄介な正成は死んだ」とすっかり騙されて油断してしまいます。
翌年、死んだはずの正成が突如として復活し、より防御力の高い「千早城(ちはやじょう)」で再び挙兵します!幕府軍は「今度こそ息の根を止める!」となんと10万人以上の超大軍で千早城を包囲。しかし正成は全く動じず、甲冑を着せた大量の「わら人形」を夜明けに一斉に立たせて、敵が矢を射尽くしたところで本物の兵が奇襲をかけるなど、またしても敵をボコボコにしました。
正成がたった数千人の兵で、幕府の主力軍10万人を千早城に100日間も釘付けにしたことは、日本の歴史を大きく動かしました!「あの無敵の鎌倉幕府軍が、小さな城を一つも落とせないぞ!」というニュースが全国に広まり、新田義貞や足利高氏(尊氏)といった有力な武将たちが次々と幕府に反旗を翻し、ついに鎌倉幕府は滅亡へと追い込まれたのです。
幕府滅亡後、後醍醐天皇による「建武の新政」が始まります。正成は最大の功労者の一人として天皇から絶大な信頼を受け、複数の国の国司に任命されるなど大出世を果たしました。しかし、武士の不満を無視した公家中心の政治はすぐに破綻し、共に幕府を倒した英雄である足利尊氏が、ついに天皇に反逆して巨大な軍勢を率いて立ち上がってしまいます。
尊氏の数万の大軍が京都へ迫る中、正成は「今回は勝ち目がありません。一度京都を捨てて尊氏と和睦すべきです」と天皇に進言しますが、受け入れられず出撃を命じられます。死を覚悟した正成は、桜井の宿(大阪府島本町)で11歳の長男・正行(まさつら)を呼び寄せ、「父が討ち死にしても、最後まで天皇のために戦い抜け」と刀を託して故郷へ帰しました。これを「桜井の別れ」と呼びます。
1336年、正成は盟友である新田義貞とともに、兵庫県の「湊川(みなとがわ)」で足利尊氏・直義の超大軍を迎え撃ちます。味方の軍はわずか700人。それでも正成は尊氏の弟・直義の陣に命がけの猛突撃を16回も繰り返し、あわや直義を討ち取る寸前まで追い詰めるという凄まじい鬼神の戦いぶりを見せつけました。
しかし最後は力尽き、弟の楠木正季(まさすえ)と刺し違えて自害します。死の直前、弟が「七度人間として生まれ変わって、朝敵(天皇の敵)を滅ぼしたい(七生報国)」と言ったのに対し、正成は「罪深い願いだが、私もそう思う」と笑って命を散らしました(享年43)。「大楠公(だいなんこう)」として崇められ、負けを悟りながらも忠義を貫き通した彼の美学は、時代を超えて日本人の心に深く刻まれています。