737年、のちの光仁天皇の長男として誕生します。お母さん(高野新笠)が百済(くだら=朝鮮半島)からの渡来人の血を引く身分の低い出身だったため、本来なら絶対に天皇になれる立場ではありませんでした。しかし、大人たちの激しい権力争いなどの奇跡が重なり、なんと第50代天皇に大抜擢されます!「まさか自分がトップになるなんて…」と一番驚いたのは本人だったかもしれません。異例の形で誕生した天皇です。
天皇になった彼を悩ませたのは、奈良(平城京)の大きなお寺や力を持ったお坊さんたちでした。「道鏡」というお坊さんが天皇になろうとした事件などもあり、桓武天皇は「お坊さんが政治に口出ししてくるのはもうウンザリだ!」と大激怒。このしがらみを完全に断ち切るために、「よし、お坊さんたちを奈良に置いたまま、私だけ新しい都へ引っ越しちゃおう!」と、とんでもないスケールの大きな引っ越し計画を思いつきます。
784年、お坊さんたちから逃れるため、京都府の長岡京(ながおかきょう)に新しい都を作り、引っ越しを決行します!「これでようやく静かに政治ができるぞ」と安心したのも束の間。なんと、新しい都づくりのリーダーだった一番のお気に入り家臣(藤原種継)が、何者かに暗殺されてしまうという大事件が起きてしまいます!順調に進むはずだった引っ越し計画は、いきなり暗礁に乗り上げてパニック状態になってしまいました。
激怒した桓武天皇は「犯人は実の弟である早良親王(さわらしんのう)だ!」と疑い、なんと弟を島流しにしてしまいます。弟は「私はやっていない!」と無実を訴え、ご飯を食べるのを拒否して死んでしまいました。すると、天皇の周りで身内の不幸や恐ろしい病気が連続して起こるようになります。「これは無実の罪で死んだ弟の怨霊(おんりょう)の呪いだ…」と、桓武天皇は夜も眠れないほどの恐怖に震え上がることになるのです。
「長岡京は呪われている!もう限界だ!」。怨霊の恐怖や病気から逃れるため、桓武天皇はたった10年で長岡京を捨てて、再び引っ越しを決断します。そして794年、歴史のテストで絶対に出る「鳴くよ(794)ウグイス平安京」でおなじみの、新しい都(現在の京都市)を完成させました!「今度こそ、平和で安らかな都になってほしい」という強い願いを込めて「平安」という名前が付けられ、約400年続く平安時代がスタートします。
都を新しくした桓武天皇の次の目標は、「まだ朝廷に従っていない東北地方(蝦夷=えみし)を支配すること」でした。何度も大軍を送り込みますが、東北地方にはアテルイ(阿弖流為)というめちゃくちゃ強いリーダーがいました。アテルイたちは、地の利を活かした奇襲攻撃(ゲリラ戦法)で朝廷の軍隊を次々とボコボコに撃退します!「このままでは東北を支配できない…」。予想外の大苦戦に、天皇は頭を抱えてしまいました。
東北地方のピンチを救うため、桓武天皇は軍事の天才である坂上田村麻呂(さかのうえの たむらまろ)を、テスト頻出の役職征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に大抜擢します!田村麻呂は、敵の心を掴む優しさと圧倒的な強さで東北へ進軍。胆沢城(いさわじょう)という前線基地を作り、ついにあの最強リーダーのアテルイを降伏させることに成功しました!こうして、朝廷の支配パワーは東北地方へと大きく広がっていったのです。
国を強くする一方で、国民への優しさも忘れません。当時、一般の農民を無理やり兵士にするルール(軍団)があり、農民たちは「もう畑仕事ができないよ…」と限界ギリギリでした。そこで天皇はこの厳しいルールを廃止し、代わりに地方の役人の子供たちなど、強くてやる気のある若者だけを集めた少数精鋭の部隊「健児(こんでい)」を作るルールへとチェンジします!これにより、農民たちは大喜びで農業に専念できるようになりました。
晩年になっても「東北の支配(軍事)」と「平安京づくり(造作)」の2大プロジェクトをガンガン進めていた天皇ですが、ある日、家臣の藤原緒嗣(ふじわらの おつぐ)から「天皇様、この2つはお金がかかりすぎて国民が死にそうです!」と怒られてしまいます。普通のトップなら激怒するところですが、天皇は「確かに民衆を苦しめすぎたな…」と素直に反省し、なんとこの2大プロジェクトをスパッと中止しました。国民の痛みが分かる素晴らしい名君ですね。
平安京への引っ越しや東北の支配を通して、桓武天皇が一番やりたかったことは「もう一度、天皇が中心となってルール(律令)で国をまとめること」でした。ズルをしてお金をチョロまかす地方の役人を厳しくチェックするため、勘解由使(かげゆし)という新しい警察のような役職も作ります。お坊さんの政治への口出しを断ち切り、強いリーダーシップで日本を立て直した桓武天皇。彼が作った平安京は、この後約1000年も日本の都として輝き続けるのです!