1141年、備中国(現在の岡山県岡山市)の吉備津神社の神官の家に生まれます。幼い頃から仏教に深く帰依し、14歳で比叡山延暦寺に登って出家。天台宗や密教の奥義を徹底的に学び、優秀な僧侶として成長していきました。
比叡山で学ぶうちに「日本には仏教の真髄が欠けているのではないか」と疑問を抱き、28歳で命懸けの航海に出て南宋(中国)へ渡ります。約半年の滞在で天台宗の新しい教えや膨大な経典を手に入れ、日本へと持ち帰りました。
47歳の時、仏教の発祥地であるインドを目指して二度目の宋への渡海を決行します。しかし国境の紛争でインド行きを断念せざるを得なくなり、代わりに天台山へ登って虚庵懐敞(きあんえじょう)に弟子入りし、本格的な「臨済禅」の印可(マスターの証明)を受けました。
二度目の宋からの帰国時、彼は禅の教えと共に「お茶の種」と「抹茶を飲む習慣」を日本に持ち帰りました。九州の脊振山(せふりさん)などに種を植えて栽培を始め、これが日本中に広まる茶道文化のルーツとなりました。
本格的な禅宗を日本に広めようとすると、権力を握っていた比叡山延暦寺から「怪しい新興宗教を禁止しろ!」と猛烈な弾圧を受けます。栄西はこれに対し『興禅護国論』を書き上げ、「禅を広めることこそが国家を鎮護するのだ」と論理的に真っ向から反論しました。
ただ反発するだけでなく、彼は非常に優れた政治的バランス感覚を持っていました。「禅だけでなく、天台宗や真言宗の教えも一緒に学びます」と妥協する柔軟な姿勢を見せ、1202年に鎌倉幕府の後援を得て京都に初めての禅寺「建仁寺」を建立しました。
京都の旧仏教勢力の圧力を避けるため、新興の武士の都である鎌倉へと下ります。そこで2代将軍・源頼家や北条政子らと面会して彼らの心をガッチリと掴み、幕府の絶大なバックアップを得て鎌倉に「寿福寺」を開山しました。
「座禅を組み、自らの精神力で悟りを開く」という禅のストイックで実践的な教えは、常に死と隣り合わせの戦場に生きる鎌倉武士たちの気風に完璧にマッチしました。こうして臨済宗は武士階級の圧倒的な支持を集めることになります。
ある日、3代将軍の源実朝が酷い二日酔いで苦しんでいると聞きつけた栄西は、良薬として「お茶(抹茶)」を淹れ、お茶の健康効果を記した『喫茶養生記』という本を一緒に献上しました。これを飲んだ実朝はすっかり元気になり、栄西を深く信頼しました。
禅だけでなく、その高い人望と政治力を見込まれ、重源の死後は源平合戦で焼け落ちた東大寺の再建プロジェクトの責任者(大勧進)も引き継ぎ、見事に完成させました。1215年、75歳でこの世を去りますが、彼の持ち込んだ禅と茶は日本文化の骨格となりました。