1618年、江戸幕府の基礎を築いた偉大な儒学者・林羅山の三男として京都に生まれます。幼い頃から父の圧倒的な知識と厳しい指導を浴びて育ち、儒教や日本の歴史、文学など幅広い学問を驚異的なスピードで吸収していきました。
若い頃は「春斎(しゅんさい)」と名乗っていました。兄たちが早世したり仏門に入ったりしたため、彼が羅山の後継者として期待を一身に背負うことになり、父の右腕として江戸幕府の様々な公文書の作成や学問の指導をサポートしました。
1643年、26歳の時に執筆した著書『日本国事跡考』の中で、「松島、丹後の天橋立、安芸の厳島(宮島)、三処を奇観となす」と絶賛しました。この言葉が、現在でも日本の美しい景色の代名詞となっている「日本三景」のルーツになったと言われています!
その卓越した才能は幕府にも高く評価され、第4代将軍・徳川家綱に直接学問を教える「侍講(じこう)」の役目を任されます。家綱からの信頼は厚く、父・羅山と共に幕府の権威を学問の面から強固に支える重要な役割を果たしました。
将軍からの命を受け、父・羅山と共に日本の歴史を神代からまとめる巨大プロジェクトに取り掛かります。中国の歴史書にならった本格的な日本の通史を作ろうと、日本中のあらゆる記録や資料を収集し、順調に編纂作業を進めていました。
1657年、江戸中を焼き尽くす「明暦の大火」が発生。林家の屋敷も焼け落ち、親子で何十年もかけて集めた数万冊の貴重な蔵書や、完成しかけていた歴史書の原稿のほとんどが灰になってしまうという絶望的な悲劇に見舞われました。
愛する本をすべて失ったショックで、大火災の数日後に父・羅山がこの世を去ってしまいます。最大の理解者であり師匠であった父を失い、さらに事業は振り出しに戻るというどん底の中、鵞峰は「父の遺志は絶対に私が継ぐ!」と不屈の決意を固めました。
焼け残ったわずかな資料と、父から叩き込まれた自分自身の「驚異的な記憶力」だけを頼りに、歴史書の再執筆という途方もない作業に取り掛かります。火事からわずか数年の間に凄まじい執念で原稿を復元し、執筆作業を前進させました。
1670年、ついに神代から後陽成天皇までの日本の歴史を記した全310巻にも及ぶ大巨編『本朝通鑑(ほんちょうつがん)』を完成させ、幕府に献上しました!大火の悲劇を乗り越えて成し遂げられたこの歴史的偉業は、その後の日本の歴史研究に計り知れない貢献をしました。
彼のこの偉大な功績により、幕府における林家の権威は絶対的なものとなりました。父の跡を継いで儒学の最高責任者である「弘文院学士」となり、これが後の「大学頭(だいがくのかみ)」として、林家が江戸時代を通じて日本の学問のトップに君臨し続ける確固たる基礎となりました。