1644年(または45年)、江戸幕府の基礎を築いた偉大な林羅山の孫、林鵞峰の息子として生まれます。幼い頃から林家の跡取りとして英才教育を受け、家康以来の「幕府の御用学者」としての重圧と期待を背負って育ちました。
4代・家綱の時代から若くして幕府に出仕。父・鵞峰をサポートしながら実務経験を積み、1683年には父の後を継いで、大名たちを統制するための新しい法律『武家諸法度(天和の武家諸法度)』の起草という大仕事を任されました。
彼の運命を大きく変えたのが、学問(特に儒学)をこよなく愛する第5代将軍・徳川綱吉の登場です!綱吉は鳳岡の深い学識を大変気に入り、彼を側近として重用し、連日のように儒学の講義や議論を熱心に行いました。
当時の儒学者は「僧侶」と同じ扱いとされ、頭を丸める(剃髪する)のが常識でした。しかし1691年、綱吉から「お前たちは武士と同じだ。髪を伸ばせ!」という歴史的な命令(蓄髪)を受け、儒学者がついに独立した身分として認められました!
髪を伸ばして武士と同じ身分になった鳳岡は、幕府の教育と儀式の最高責任者である初代「大学頭(だいがくのかみ)」に任命されます!これ以降、江戸時代を通じて林家が代々「大学頭」を世襲し、日本の学問のトップに君臨することになります。
将軍・綱吉は儒学を天下に広めるため、上野にあった林家の塾を神田の湯島に移し、立派な孔子廟である「湯島聖堂(ゆしませいどう)」を建立しました。鳳岡はこの聖堂の学長となり、ここで多くの武士たちに学問を教えました。
1702年に起きた「赤穂事件(忠臣蔵)」では、吉良邸に討ち入った47人の浪士たちをどう処罰するかで幕府内で大激論が起きました。鳳岡は彼らの「主君への忠義」を儒学の観点から高く評価し、命を救うべきだ(助命)と主張したと伝えられています。
しかし試練も訪れます。1703年の宝永の大火など度重なる災害で、完成したばかりの湯島聖堂が焼失してしまいました。それでも鳳岡は祖父や父と同じように決して屈せず、幕府からの支援を取り付けて見事に聖堂の再建を果たしました。
綱吉の死後、6代将軍・家宣の時代になると、強力なライバルである新井白石が幕府の実権を握ります。一時的に林家の直接的な政治的影響力は低下しましたが、鳳岡は「大学頭」としての圧倒的な権威と林家のプライドをしっかりと守り抜きました。
家綱、綱吉、家宣、家継、そして8代将軍・吉宗まで、なんと5代もの将軍に仕え続けました!1732年に88歳という当時としては驚異的な長寿でこの世を去り、武力から法律へと転換する幕府の「文治政治」を盤石なものにした生きた伝説となりました。