1759年、御三卿の一つである田安徳川家の初代当主・徳川宗武の息子として生まれました。つまり、名君と名高い第8代将軍・徳川吉宗の孫にあたります!幼い頃から大変優秀で、次期将軍の有力候補として、周囲から帝王学と厳しい英才教育を叩き込まれて育ちました。
しかし、彼のあまりの優秀さを警戒した田沼意次らの陰謀(諸説あり)により、17歳で陸奥国(福島県)の白河藩・松平家へ養子に出されてしまいます。これにより将軍への道は事実上断たれましたが、定信は腐ることなく「白河藩を日本一の藩にしてやる!」と決意を新たにしました。
白河藩主となった定信を「天明の大飢饉」が襲います。全国で数十万人が餓死する未曾有の大災害でしたが、定信は自らの食事を削り、領民からのお米の買い上げや食料の輸入をいち早く手配。なんと白河藩からは「一人の餓死者も出さない」という奇跡的な手腕を発揮し、名君として全国に名をとどろかせました!
大飢饉への対応で幕府の権威が失墜する中、定信は腐敗した政治を行っていた(と見なされていた)田沼意次を激しく批判し、失脚へと追い込みます。そして1787年、第11代将軍・徳川家斉のもとで幕府の最高職である「老中首座(トップ)」に就任!ついに天下の政治を動かす権力を握りました。
老中となった定信は、尊敬する祖父・徳川吉宗が行った「享保の改革」を理想とし、「寛政の改革」を力強くスタートさせます。田沼時代に広まった賄賂や贅沢を徹底的に排除し、「質素倹約」と「農業の復興」を柱とした、非常に厳格で道徳的な政治を目指しました。
当時、幕府の直臣である旗本や御家人は、商人からの借金で首が回らない状態でした。そこで定信は「棄捐令(きえんれい)」という超法規的な徳政令を発布!「古い借金は全部チャラ!新しい借金も利子を安くしろ!」と命じ、武士たちの生活を強引に救済しようとしました。
政治の引き締めは文化や思想にも及びます。幕府の公式な学問である「朱子学」以外を教えることを禁止する「寛政異学の禁」を出しました。さらに、世の中を風刺する出版物も厳しく取り締まり、有名な出版プロデューサーの蔦屋重三郎や、海防を説いた林子平らが処罰されました。
厳しいだけでなく、将来の備えも忘れません。町民から集めた税金の7割を万が一の災害のために貯金させる「七分積金(しちぶつみきん)」の制度を作り、これがのちの江戸のインフラ整備に役立ちました。また、無宿人(ホームレス)に職業訓練をさせる「人足寄場(にんそくよせば)」も設置しました。
定信の政治はあまりにも厳格で窮屈だったため、人々からは「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき(水が綺麗すぎると魚は住めない。少し濁っていた田沼の時代が恋しい)」と狂歌で皮肉られるほど、次第に民衆の不満が高まっていきました。
将軍・家斉が自分の実の父親に「大御所」の尊号(称号)を贈ろうとした際、定信は「ルール違反だ!」と猛反対して家斉と激しく対立(尊号一件)。これが決定打となり、わずか6年で老中をクビになってしまいます。しかし失脚後は白河に戻り、日本初の公園と言われる「南湖公園」を造るなど、優秀な文化人・名君として穏やかな余生を送りました。