1644年、忍者の里として有名な伊賀国(三重県伊賀市)に生まれました。若い頃は、地元のお殿様の親戚である藤堂良忠(とうどう よしただ)という青年に仕えることになります。この良忠が、当時流行していた「俳諧(はいかい=俳句のルーツ)」が大好きだったため、芭蕉も一緒になって勉強を始めました。これが、後に日本の文学史を大きく変えることになる大天才と「俳句」との、運命的な初めての出会いでした。
主君であり、俳諧を一緒に楽しむ親友でもあった良忠が、25歳という若さで突然亡くなってしまいます。深い悲しみに暮れた芭蕉は、武士として仕える道を諦めることを決意しました。そして「自分の人生は俳諧に懸けよう!」と一念発起し、故郷の伊賀を離れて、当時日本で一番のビッグシティであった江戸(東京)へと旅立ちます。故郷を捨てる覚悟を持った青年の、プロの俳諧師を目指す新たな挑戦が始まりました。
江戸に出た彼は、水道工事の仕事などをしながら一生懸命に俳諧の勉強を続け、少しずつ有名になっていきました。やがて、江戸の深川という静かな場所に小さな家を建てて住み始めます。その家の庭に、弟子からプレゼントされた「バナナの木(芭蕉)」を植えたところ、とても大きく育ちました。人々から「芭蕉庵(ばしょうあん)」と呼ばれるようになり、彼自身もこの木を気に入って「松尾芭蕉」というペンネームを名乗るようになったのです。
当時のお金持ちたちが楽しむ言葉遊びだった俳諧を、芭蕉は深い精神性を持った芸術のレベルへと引き上げていきます。その代表作が、誰もが知っている「古池や 蛙(かわず)飛びこむ 水の音」という句です。ただカエルが水に飛び込んだだけの日常の風景ですが、その小さな音によって、かえって周囲の静けさや奥深さを表現しました。この句が大絶賛され、芭蕉のスタイル(蕉風:しょうふう)が完成したと言われています。
1689年、46歳になった芭蕉は「どうしても東北地方の美しい景色が見たい!」という衝動を抑えきれず、弟子の河合曽良(かわい そら)を連れて江戸を出発します。江戸から東北、北陸を巡って岐阜県の大垣まで、なんと約2400キロメートル(およそ150日)も歩き続けるという超過酷な旅でした。この時の旅の記録をまとめた紀行文が、国語や歴史のテストに絶対に出る超名作『奥の細道(おくのほそみち)』です!
『奥の細道』の旅の途中、岩手県の平泉(ひらいずみ)を訪れます。そこはかつて、源義経(みなもとの よしつね)や奥州藤原氏という強い武士たちが華やかな文化を築いた場所でした。しかし、今はただ夏草が生い茂るだけの寂しい野原になっています。それを見た芭蕉は「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」という句を詠み、人間の栄華の儚(はかな)さを思ってポロポロと涙を流しました。情景が目に浮かぶ最高の名句です。
さらに旅を進め、山形県にある立石寺(りっしゃくじ)、通称「山寺」を訪れました。険しい岩山にある静かなお寺の中で、セミの鳴き声だけが響き渡っています。芭蕉はその圧倒的な静寂と自然の神秘を感じ取り、「閑(しずか)さや 岩にしみ入る 蝉(せみ)の声」という、あまりにも有名な句を詠みました。まるで自分が大自然の中に溶け込んでいくような、不思議で美しい感覚を見事に短い言葉で表現しています。
実は、芭蕉には「本当は江戸幕府の隠密(忍者)だったのではないか?」という有名な都市伝説があります。理由はいくつかあり、①忍者の里である伊賀の出身だったこと、②『奥の細道』の旅で1日に約50キロも歩くという、40代後半にしては異常なスピードだったこと、③幕府の許可が必要な関所を簡単に通過していることなどです。真実は謎のままですが、そんな想像をしてしまうほど超人的な体力を持っていたのは事実です!
芭蕉が人生をかけて追求したのは、日本の美意識である「わび・さび」の世界でした。古くて質素なものの中に美しさを見出す心です。そして晩年には、さらにその境地を越え、日常のありふれた風景を気取らずにサラリと詠む「軽み(かるみ)」という究極のスタイルにたどり着きます。言葉を飾り立てるのではなく、自然のままに生きるという、悟りを開いたお坊さんのようなレベルにまで達していたのです。
『奥の細道』の旅を終えた後も、芭蕉の旅への情熱は冷めませんでした。1694年、新たな旅の途中で訪れた大坂(大阪府)で、胃腸の病気にかかって倒れてしまいます。「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻(まわ)る」という、最後まで旅への想いが詰まった美しい辞世の句(この世を去る前に詠む句)を残し、51歳の生涯を閉じました。彼が歩き、詠み続けた言葉の数々は、日本の心として今も私たちの中で生き続けています。