1545年、朝鮮の首都・漢城(現在のソウル)で、代々文官を務める家系に生まれます。しかし、彼は書物よりも兵法や武術に強い関心を示し、周囲の反対を押し切って武官(軍人)への道を志すようになりました。
武官になるための国家試験(武科)に挑みますが、試験中に馬から落ちて足を骨折する大怪我を負ってしまいます。しかし、彼は柳の枝で足を縛って最後まで試験を完遂しました。見事合格して役人になったのは32歳という、当時としてはかなり遅咲きのスタートでした。
不正を決して許さない真っ直ぐすぎる性格だったため、上司と度々衝突し、左遷や免職を繰り返す苦難の道を歩みます。しかし、幼馴染の宰相・柳成龍(リュ・ソンリョン)らにその真面目さと軍事的才能を高く評価され、全羅左道水軍節度使(海軍の司令官)に大抜擢されました。
日本からの侵略の気配を察知した彼は、水軍の猛特訓を開始します。さらに、船の甲板を板で覆って鉄のトゲを無数に打ち込み、敵の乗り込みを防ぐと共に大砲で敵陣に突っ込む秘密兵器「亀甲船(きっこうせん)」を実戦配備し、来たるべき決戦に備えました。
1592年、豊臣秀吉の軍勢が海を渡って襲来(文禄の役)。朝鮮の陸軍が連戦連敗で崩壊していく中、彼は水軍を率いて玉浦(オクポ)の海戦で日本軍の輸送船団を奇襲して大勝を収め、朝鮮軍にとって貴重な初勝利をもたらしました。
彼の最大のハイライトの一つが「閑山島(ハンサンド)海戦」です。脇坂安治らが率いる日本水軍をおびき寄せ、味方の船を鶴が羽を広げたようなV字型に展開する「鶴翼(かくよく)の陣」で一斉射撃を浴びせ、日本軍に壊滅的な打撃を与えました。
連戦連勝で最高の地位(三道水軍統制使)に登り詰めますが、味方である元均らの嫉妬と政治的な陰謀に巻き込まれ、なんとスパイの濡れ衣を着せられて投獄されてしまいます。死罪は免れたものの、すべての階級を剥奪されて一兵卒として従軍する「白衣従軍」の屈辱を味わいました。
彼の不在中、朝鮮水軍は日本軍に大敗して壊滅状態に。慌てた朝廷は彼を再びトップに復帰させますが、残された船はわずか13隻でした。しかし彼は激しい潮流の鳴梁(ミョンニャン)海峡の地形を利用し、133隻もの日本水軍を撃退するという奇跡の勝利を収めました!
1598年、秀吉の死によって撤退を開始した日本軍(島津義弘ら)を追撃する「露梁(ノリャン)海戦」が勃発。激戦の最中、彼は敵の銃弾を胸に受けてしまいます。軍の士気を下げないため「戦いはまだ終わっていない。私の死を敵に知らせるな」と言い残し、54歳で壮絶な最期を遂げました。
彼の死後も部下たちが戦い続け、日本軍を完全に退かせました。祖国の絶体絶命の危機をその天才的な戦術と不屈の精神で救った彼は、現在でも韓国において「忠武公(チュンムゴン)」と尊称され、最大の英雄として紙幣や銅像にその姿が刻まれています。