1733年、若狭国小浜藩(福井県)の藩医の家に、江戸の藩邸で生まれました。代々外科医の家系だったため、若くして幕府の医官から外科を学びますが、当時はまだ中国から伝わった漢方医学が主流でした。しかし玄白は、長崎から伝わるオランダ医学(蘭方)の合理的な治療法に強く惹かれていきます。
藩の医者として働きながらオランダ語を学び始めた玄白は、中津藩の蘭方医・前野良沢(まえの りょうたく)と出会い意気投合します。良沢は長崎に留学して直接オランダ語を学んだ経験があり、玄白にとって西洋の知識を深く知るための最強のパートナーとなりました。
ある時、オランダの商館長が江戸にやって来た際、玄白たちは西洋の医学書を見せてもらいます。その中にあった『ターヘル・アナトミア』という解剖書に描かれた人間の内臓の図は、それまでの日本の医学書の図とは全く違う、驚くほど精密でリアルなものでした。
1771年、千住の小塚原刑場で、処刑された罪人の死体を解剖(腑分け)する機会を得ました。玄白と良沢たちは『ターヘル・アナトミア』を持参して実際の臓器と見比べました。すると、本に描かれている図が実物と寸分違わず完璧に一致していることに、雷に打たれたような大衝撃を受けたのです!
「この本を翻訳して日本中に広めなければ、日本の医学は遅れたままだ!」と決意した玄白たちは、翌日からすぐに翻訳作業に取り掛かります。しかし、オランダ語の辞書すら存在しない時代です!「眉毛」という単語一つを解読するのに、春の長い一日を丸々使い果たして全員で見つめ合うという、果てしない苦闘の始まりでした。
言葉の壁にぶつかった彼らは、新しい日本語(翻訳語)を自分たちで作り出すという離れ業をやってのけます。「神経」「軟骨」「動脈」「処女膜」など、現在私たちが当たり前のように使っている医学用語の多くは、この時に玄白たちが知恵を絞って生み出したものなのです!
月に何度も集まり、血の滲むような努力を続けること約4年。1774年、ついに日本初の本格的な西洋医学の翻訳書『解体新書』が全5巻で出版されました!日本の医学だけでなく、その後の西洋学問(蘭学)ブームの火付け役となる、歴史を揺るがす大ベストセラーの誕生です。
実は『解体新書』の著者名に、一番翻訳の苦労をしたはずの前野良沢の名前がありません。「完璧な翻訳でない限り自分の名前は出せない」という良沢の厳しい職人魂と、「多少不完全でも、早く世に出して人命を救うべきだ」という玄白のプロデューサー気質の違いによるものでしたが、二人の友情は生涯続きました。
玄白は江戸で「天真楼(てんしんろう)」という私塾を開き、大槻玄沢(おおつき げんたく)などの超優秀な弟子を多数育て上げました。また、天才発明家である平賀源内とも大親友であり、身分や藩の枠を超えて新しい知識を求める「知識人ネットワーク」の中心人物として活躍しました。
晩年は名医として大成功を収めました。83歳になった玄白は、「あの熱かった青春時代と、日本に蘭学が広まった歴史を書き残しておこう」と筆を執り、回顧録『蘭学事始(らんがくことはじめ)』を執筆します。「一滴の油が広い池に広がるように、蘭学が日本中に広まった」という感動的な言葉を残し、85歳で大往生を遂げました。