1730年、伊勢国松阪(三重県)の木綿商人に生まれました。しかし、幼い頃から本ばかり読んでいて商売には全く向かず、江戸に店を出すも大失敗してしまいます。「この子に商人は無理だ」と悟った母親の勧めで、22歳で医者になるために京都へ遊学しました。
京都では医学だけでなく、儒学や日本の古典文学を猛勉強!特に平安時代の『源氏物語』に深く感銘を受け、儒教的な道徳で物語を評価するのではなく、人間のありのままの感情や悲哀を共感する「もののあわれ」こそが文学の本質であると提唱しました。
28歳で松阪に帰り、町医者(小児科医)として開業します。彼は大変優秀で優しいお医者さんとして地元の人々から慕われました。そして、昼間はしっかりと医者として働きながら、夜は自分の情熱のすべてを注いで日本の古典研究に没頭する二重生活を送りました。
彼の家の2階にあった書斎は「鈴屋(すずのや)」と呼ばれました。彼は36個の小さな駅鈴を集めて赤い紐で結び、勉強に疲れた時や眠気に襲われた時にその鈴を鳴らし、清らかな音色で心をリフレッシュさせていたという、とても風雅なエピソードがあります。
34歳の時、江戸の偉大な国学者・賀茂真淵が松阪の宿に泊まっていると聞き、飛んで会いに行きます!(松阪の一夜)。日本の古代の心を探求したいと熱く語る宣長に対し、真淵は「ならば、日本の原点である『古事記』を研究しなさい」と自らの夢を託しました。
師・賀茂真淵との約束を胸に、34歳から『古事記』の解読に取り掛かります。当時の古事記は複雑な漢字(万葉仮名)で書かれており、誰も正しく読めない「謎の書物」でした。これを一文字ずつ読み解き、なんと35年もの歳月をかけて全44巻の『古事記伝』を完成させたのです!
彼が『古事記伝』で成し遂げた最大の功績は、失われていた古代の日本語の発音と意味「やまとことば」を完全に復元したことです!中国の漢字文化に染まる前の、日本人が本来持っていた純粋な言葉と精神を、執念の研究によって現代に蘇らせました。
儒教や仏教といった外国から入ってきた思想(からごころ)を取り払い、日本古来の純粋で素直な心「やまとごころ(惟神の道)」を大切にすべきだと主張しました。この「国学」の思想は、幕末の尊王攘夷運動など、後の日本の歴史を動かす巨大なエネルギーとなっていきます。
彼は桜の花をこよなく愛し、「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花(日本人の心とは、朝日に輝く山桜のようなものだ)」という有名な和歌を残しています。理屈ではなく、美しいものを美しいと感じる素直な心を生涯にわたって大切にしました。
1801年に72歳で亡くなりますが、死の直前に自分のお葬式のお弁当のメニューや、お墓のデザイン、桜の木を植える位置に至るまで、驚くほど細かく指定した遺言書を残しています。最後まで自分らしく、美学を貫き通した完璧なエンディングでした。