本居 宣長 もとおり のりなが

1730年 - 1801年 江戸時代中期 - 後期
生没年月日: 享保15年5月7日(1730年6月21日) 〜 享和元年9月29日(1801年11月5日)
出身: 伊勢国(三重県松阪市) 国学者、医師
35年の歳月をかけて日本のルーツである『古事記』を解読し、「国学」を大成させた江戸時代の偉大な国学者にして医師です!三重県松阪市の商人の家に生まれますが、商売には向かず京都へ遊学。医者として生計を立てながら古典文学の研究に没頭しました。『源氏物語』などの研究を通じて、人間のありのままの感情や思いやりを尊ぶ「もののあわれ」という日本独自の美意識を提唱します。34歳の時、生涯の師となる賀茂真淵と運命的な出会い(松阪の一夜)を果たし、『古事記』の解読という途方もない国家プロジェクトを託されました。昼間は町医者として働き、夜は鈴の音で心を清めながら自分の書斎「鈴屋(すずのや)」でひたすら研究を続け、なんと35年もの歳月をかけて全44巻の『古事記伝』を完成させます!中国の思想(儒教や仏教)が入ってくる前の、日本古来の純粋な心「やまとごころ」を追求し続け、日本の思想や文学に計り知れない影響を与えた、努力と執念の天才学者のストーリーです!
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商売下手な本好きの少年

1730年、伊勢国松阪(三重県)の木綿商人に生まれました。しかし、幼い頃から本ばかり読んでいて商売には全く向かず、江戸に店を出すも大失敗してしまいます。「この子に商人は無理だ」と悟った母親の勧めで、22歳で医者になるために京都へ遊学しました。
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京都遊学と「もののあわれ」の発見

京都では医学だけでなく、儒学や日本の古典文学を猛勉強!特に平安時代の『源氏物語』に深く感銘を受け、儒教的な道徳で物語を評価するのではなく、人間のありのままの感情や悲哀を共感する「もののあわれ」こそが文学の本質であると提唱しました。
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昼は小児科医、夜は学者

28歳で松阪に帰り、町医者(小児科医)として開業します。彼は大変優秀で優しいお医者さんとして地元の人々から慕われました。そして、昼間はしっかりと医者として働きながら、夜は自分の情熱のすべてを注いで日本の古典研究に没頭する二重生活を送りました。
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鈴の音を愛した書斎「鈴屋」

彼の家の2階にあった書斎は「鈴屋(すずのや)」と呼ばれました。彼は36個の小さな駅鈴を集めて赤い紐で結び、勉強に疲れた時や眠気に襲われた時にその鈴を鳴らし、清らかな音色で心をリフレッシュさせていたという、とても風雅なエピソードがあります。

運命の出会い「松阪の一夜」

34歳の時、江戸の偉大な国学者・賀茂真淵が松阪の宿に泊まっていると聞き、飛んで会いに行きます!(松阪の一夜)。日本の古代の心を探求したいと熱く語る宣長に対し、真淵は「ならば、日本の原点である『古事記』を研究しなさい」と自らの夢を託しました。
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35年の超大作!『古事記伝』

師・賀茂真淵との約束を胸に、34歳から『古事記』の解読に取り掛かります。当時の古事記は複雑な漢字(万葉仮名)で書かれており、誰も正しく読めない「謎の書物」でした。これを一文字ずつ読み解き、なんと35年もの歳月をかけて全44巻の『古事記伝』を完成させたのです!
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よみがえる古代の音「やまとことば」

彼が『古事記伝』で成し遂げた最大の功績は、失われていた古代の日本語の発音と意味「やまとことば」を完全に復元したことです!中国の漢字文化に染まる前の、日本人が本来持っていた純粋な言葉と精神を、執念の研究によって現代に蘇らせました。
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「国学」の大成と「やまとごころ」

儒教や仏教といった外国から入ってきた思想(からごころ)を取り払い、日本古来の純粋で素直な心「やまとごころ(惟神の道)」を大切にすべきだと主張しました。この「国学」の思想は、幕末の尊王攘夷運動など、後の日本の歴史を動かす巨大なエネルギーとなっていきます。
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桜を愛した豊かな心

彼は桜の花をこよなく愛し、「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花(日本人の心とは、朝日に輝く山桜のようなものだ)」という有名な和歌を残しています。理屈ではなく、美しいものを美しいと感じる素直な心を生涯にわたって大切にしました。
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完璧な終活と遺言書

1801年に72歳で亡くなりますが、死の直前に自分のお葬式のお弁当のメニューや、お墓のデザイン、桜の木を植える位置に至るまで、驚くほど細かく指定した遺言書を残しています。最後まで自分らしく、美学を貫き通した完璧なエンディングでした。
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