1154年、武蔵国(埼玉県)で源氏の御曹司として生まれました。しかしわずか2歳の時、父・源義賢が、従兄弟である源頼朝の長兄(悪源太義平)によって殺害されてしまいます!命を狙われた幼き義仲は、信濃国(長野県)の木曽谷へ逃れ、豪族の中原兼遠に匿われて山の中で逞しく成長しました。
1180年、「平家を打倒せよ」という以仁王の令旨(命令書)が諸国に下ると、木曽の山中で力を蓄えていた義仲もついに立ち上がります!木曽の軍勢を率いて信濃国から北陸地方へと進軍し、現地の武士たちを次々と味方につけて、破竹の勢いで巨大な勢力へと成長していきました。
連戦連勝で勢力を拡大する義仲に対し、関東で挙兵していた従兄弟の源頼朝が警戒心を抱き、あわや源氏同士で衝突しそうになります。しかし義仲は「今は平家を倒すことが先決だ!」と争いを避け、自分の長男である義高を人質として頼朝の元(鎌倉)へ送り、劇的な和睦を成立させました。
1183年、10万とも言われる平家の超大軍が義仲を討伐するために北陸へ攻めてきます。倶利伽羅峠(富山県と石川県の境)で激突した際、義仲は数百頭の牛の角に松明をくくりつけて夜の敵陣へ突撃させる「火牛の計(かぎゅうのけい)」を仕掛け、大混乱に陥った平家軍を谷底へ突き落として壊滅させました!
倶利伽羅峠での大勝利により、ついに平家は京都を捨てて西へ逃亡します。義仲は京都に一番乗りを果たし、後白河法皇から「朝日が昇るような凄まじい勢いだ!」と絶賛され、「朝日将軍(旭将軍)」という最高の栄誉を授かりました。田舎から出てきた若武者が、天下の頂点に立った瞬間です。
しかし、栄光は長くは続きませんでした。当時の京都は深刻な飢饉(養和の飢饉)で食糧が全くなく、そこへ義仲の数万の軍勢が雪れ込んだため、腹を空かせた山育ちの兵士たちが京の町で略奪を働いてしまいます。さらに、京都の洗練されたマナーを知らない義仲の粗野な振る舞いは、貴族たちの反感を買っていきました。
純粋な武将である義仲は、ドロドロとした朝廷の政治ゲームが全くできませんでした。皇位継承問題に口出しをしたことで、政治の天才・後白河法皇を激怒させてしまいます。法皇は義仲を見限り、密かに鎌倉の頼朝に「義仲を討伐してくれ」と要請を出して裏切りを画策します。
法皇の裏切りを知った義仲は激怒し、なんと法皇が住む法住寺殿を武力で襲撃して焼き討ちにしてしまいます(法住寺合戦)。法皇を幽閉して強引に政治の実権を握りましたが、これは「天皇の権威に弓を引いた朝敵(国家の敵)」になることを意味しており、致命的な悪手となってしまいました。
法皇を救出するため、ついに頼朝が派遣した源範頼・源義経の軍勢が大挙して京都へ迫ります。宇治川の戦いで敗れた義仲軍は、数万人からわずか数騎にまで激減。最後まで付き従ったのは、義仲の愛人であり、一騎当千の美しき女武者・巴御前(ともえごぜん)でした。義仲は彼女に「女は生き延びろ」と命じ、涙の別れを告げます。
残された義仲は、幼い頃から共に育った乳母子の親友・今井兼平と2人だけで戦場(粟津)を駆け抜けます。しかし、凍った田んぼの泥に馬の足をとられて身動きが取れなくなった瞬間、敵の矢が額に命中し、31歳の若さで無念の最期を遂げました。それを見た兼平も自ら刀を口に咥えて馬から飛び降りるという壮絶な自害を遂げ、不器用で真っ直ぐな主従の物語は幕を閉じました。