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木戸孝允(桂小五郎) きど たかよし(かつら こごろう)

1833年 - 1877年 江戸時代後期(幕末) - 明治時代
生没年月日: 天保4年6月26日(1833年8月11日) 〜 明治10年5月26日(1877年5月26日)
出身: 長門国萩城下(山口県萩市) 武士、政治家
幕末から明治維新にかけて大活躍した、長州藩(山口県)のリーダーです!幕末期は「桂小五郎」と名乗り、剣豪でありながら「逃げの小五郎」と呼ばれるほど慎重にピンチを切り抜けました。坂本龍馬の仲立ちで西郷隆盛と薩長同盟を結び、江戸幕府を倒す大きな原動力となります。明治新政府では「木戸孝允」として五箇条の御誓文の作成や廃藩置県をリードし、大久保利通・西郷隆盛と並んで維新の三傑と称されました。新しい国づくりに命を燃やした、情熱と知性の政治家のストーリーです!
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医者の息子から武士の養子へ

1833年、長州藩(山口県)の萩で、藩のお医者さん(和田家)の息子として生まれました。幼い頃に病弱だったため、健康にたくましく育つようにと、武士である桂家の養子に出されて「桂小五郎」と名乗ることになります。松下村塾の吉田松陰(よしだ しょういん)からも「この男は将来、必ず大きな事を成し遂げる」と絶賛されるほど、若くしてリーダーとしての才能の片鱗を見せていました。
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剣豪なのに「逃げの小五郎」!?

青年になった小五郎は江戸(東京)へ剣術の修行に出ます。メキメキと腕を上げ、江戸の三大道場の一つで塾長(トップ)を務めるほどの最強の剣豪になりました!しかし、彼は無駄な人殺しを極端に嫌い、「本当に大切な目的のために命を使うべきだ」と考えていました。新選組などの敵から追われても、刀を抜かずに全力で逃げて生き延びたため、周りからは「逃げの小五郎」と呼ばれました。
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危機一髪!池田屋事件の生還

1864年、京都の池田屋という旅館で、長州藩の志士たちが新選組に襲撃される池田屋事件が起きます。多くの仲間が命を落とした大ピンチでしたが、小五郎は偶然にも池田屋に到着するのが早すぎたため、一度外出していて奇跡的に難を逃れました!その後は敵の目を欺くため、物乞いの姿に変装したり、橋の下に隠れたりしながら、長州藩を立て直すために必死に生き延びました。
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歴史を動かす!薩長同盟

幕府を倒すため、長州藩をまとめるトップに立った小五郎(この頃から木戸孝允と名乗り始めます)は、1866年に歴史的な決断を下します。坂本龍馬の仲介を受け、長年の宿敵だった薩摩藩の西郷隆盛らと密かに手を結び、薩長同盟(さっちょうどうめい)を成立させたのです!意地を張ってなかなか折れない小五郎でしたが、日本の未来のために過去の恨みを水に流し、新しい時代への扉を開きました。
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新政府の基本方針!五箇条の御誓文

江戸幕府が倒れ、明治新政府が誕生すると、木戸は政府の中心メンバーとして大活躍します。1868年には、明治天皇が神様に誓う形で新しい日本のルールを発表した五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)の作成をリードしました。「広く会議を開いて、みんなで話し合って政治を決めよう」「古い身分制度などの悪い習慣をなくそう」といった、近代的な国づくりの土台となる素晴らしいアイデアを盛り込みました。
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テストに出る!廃藩置県

新しい政府を作ったものの、まだ全国には江戸時代から続く「藩(お殿様の領地)」と独自の軍隊が残っていました。そこで1871年、大久保利通らと共に、全国の藩を完全に廃止して「県」を置き、政府が直接支配する廃藩置県(はいはんちけん)という超ド級の大改革を断行します!自分たちの故郷である長州藩も容赦なく解体し、天皇を中心とした強力な一つの中央集権国家を作り上げるという、命がけの荒業を見事に成功させました。
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岩倉使節団で見た世界の現実

国づくりを進めるため、木戸は岩倉使節団の副リーダーとして、アメリカやヨーロッパへの大規模な視察旅行に出発します。しかし、そこで見たのは圧倒的な工業力や軍事力を持つ西洋の姿でした。「今の日本が外国と戦争しても絶対に勝てない。まずは憲法を作り、国内の教育や産業を発展させなければ!」と強い危機感を抱き、帰国後は内政の充実(国力を高めること)に全力を注ぐようになります。
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親友との対立…征韓論争

帰国した木戸を待っていたのは、西郷隆盛らが主張する「武力で朝鮮を従わせよう」という征韓論(せいかんろん)でした。木戸は「今は外国と揉めている場合ではない!国内の政治を整えるのが最優先だ!」と大久保利通と共に猛反対します。かつて薩長同盟で手を取り合った親友・西郷との悲しい対立でしたが、日本の未来を冷静に見据えた木戸の主張が通り、西郷は政府を去ることになりました。
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憲法の制定と民主主義への情熱

晩年の木戸は、病気と闘いながらも「日本にも早く立派な憲法を作り、国民の意見を取り入れる議会を開くべきだ!」と強く主張し続けました。他の政治家たちが「まだ早い」と反対する中、木戸だけは民主主義的な政治の必要性を誰よりも早く理解し、熱心に訴え続けました。この彼の熱い想いは、後の自由民権運動や大日本帝国憲法の誕生へと繋がっていくことになります。
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西南戦争の最中での悲しい最期

1877年、かつての盟友・西郷隆盛が反乱を起こした西南戦争の真っ最中、木戸は京都で重い病気(結核など)に倒れてしまいます。朦朧(もうろう)とする意識の中で、大久保利通の手を握りながら「西郷も、もういい加減にしないか…!」と叫んだのが最後の言葉だったと伝えられています。享年45歳。新しい日本を作るために命を削り、激動の時代を駆け抜けた維新の三傑の早すぎる死でした。
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