有馬 晴信 ありま はるのぶ

1567年 - 1612年 戦国 - 江戸時代初期
生没年月日: 永禄10年(1567年) 〜 慶長17年5月6日(1612年6月5日)
出身: 肥前国(長崎県南島原市) 戦国大名、キリシタン大名
戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した、肥前国(長崎県)を治める名門・有馬氏の当主にして、天正遣欧少年使節を派遣した有名なキリシタン大名です!洗礼名は「ドン・プロタジオ」(のちにジョアン)。若くして家督を継ぎますが、「肥前の熊」こと龍造寺隆信から猛烈な侵攻を受けて滅亡の危機に陥ります。しかし、南九州の覇者・島津氏と劇的な同盟を結び、1584年の「沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)」で数に勝る龍造寺軍を打ち破り、見事に大逆転勝利を収めました!大村純忠や大友宗麟と共に天正遣欧少年使節をローマへ派遣し、領内の日野江や有馬に宣教師の学校(セミナリヨ)を建てて西洋文化(活版印刷など)を花開かせます。豊臣秀吉や徳川家康の時代になってもキリスト教信仰を守り、関ヶ原の戦いも巧みに乗り切りました。しかし晩年、長崎港で起きたポルトガル船との武力衝突「マードレ・デ・デウス号事件」を鎮圧した功績を利用して旧領回復を狙ったところ、幕府の家臣・岡本大八の詐欺に引っかかってしまう「岡本大八事件」が勃発!これが家康の逆鱗に触れて領地を没収(改易)され、甲斐国(山梨県)への流罪に。最後はキリスト教の教義に従って切腹を拒否し、自ら斬首される道を選んだ、信仰と激動の生涯を駆け抜けた数奇な大名のストーリーです!
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若き当主とキリスト教への入信

1567年、肥前国(長崎県)の島原半島を治める名門・有馬氏に生まれます。1571年に父が急死したため幼くして家督を継ぎ、のちにイエズス会の宣教師から洗礼を受けて「ドン・プロタジオ」という洗礼名を持つキリシタン大名となりました。
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絶体絶命!龍造寺隆信の侵攻

当時、九州北部では「肥前の熊」と恐れられた猛将・龍造寺隆信が圧倒的な力で勢力を拡大していました。有馬氏も龍造寺の大軍による猛烈な侵攻を受け、領地を次々と奪われて滅亡の淵に立たされます。
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奇跡の勝利!沖田畷の戦い

絶体絶命の危機の中、南九州の島津氏に救援を要請!1584年、島津家久の援軍を得た有馬・島津連合軍は、「沖田畷(おきたなわて)の戦い」で数に勝る龍造寺軍を湿地帯に誘い込み、総大将・龍造寺隆信を討ち取るという大逆転勝利を収めました。
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天正遣欧少年使節の派遣

1582年、九州のキリシタン大名である大友宗麟、大村純忠と共に、ヨーロッパへ向けて4人の少年(天正遣欧少年使節)を派遣します。使節団の中には、有馬晴信の従兄弟にあたる千々石ミゲルも選ばれていました。

キリシタン文化の黄金時代

領内の日野江(ひのえ)や有馬に、キリスト教の教育機関である「セミナリヨ」や「コレジオ」を設立。ヨーロッパから活版印刷機が持ち込まれ、日本語の書物(キリシタン版)が出版されるなど、最先端の西洋文化が華麗に花開きました。
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秀吉のバテレン追放令と信仰

豊臣秀吉の九州平定に従って領地を安堵されますが、直後に秀吉からキリスト教を禁止する「バテレン追放令」が出されます。しかし晴信は表向きは従うふりをしながら、宣教師たちを密かに領内に匿って信仰を守り続けました。
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関ヶ原の戦いでの寝返り

1600年の関ヶ原の戦いでは、当初は石田三成らの「西軍」に属していましたが、戦局を見極めて途中で徳川家康の「東軍」へと寝返ります。小西行長の領地を攻め落とすなどの戦功を挙げ、家康から無事に領地を安堵されました。
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マードレ・デ・デウス号事件

1609年、以前にマカオで有馬の家臣がポルトガル人に殺害された事件の報復として、家康の許可を得た晴信は長崎港に停泊していたポルトガル船「マードレ・デ・デウス号」を大軍で包囲し、爆破・沈没させるという武力行使に出ました。
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痛恨の極み!岡本大八事件

ポルトガル船撃沈の功績を背景に、失われた旧領の回復を幕府に働きかけます。しかし、本多正純の家臣であるキリシタン・岡本大八から「家康様が旧領回復を許可した」と騙され、莫大な賄賂を巻き上げられてしまう詐欺事件(岡本大八事件)が発覚!
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切腹拒否とキリシタンとしての最期

この事件で家康の激しい怒りを買い、領地没収(改易)のうえ甲斐国(山梨県)への流罪となります。さらに1612年、死刑を命じられますが、キリスト教では自殺が禁じられているため切腹を拒否。家臣に自らの首を斬らせ、信仰に生きた波乱の生涯を閉じました。
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