明治天皇 めいじてんのう

1852年 - 1912年 幕末 - 明治時代
生没年月日: 嘉永5年9月22日(1852年11月3日) 〜 明治45年(1912年)7月30日
出身: 山城国(京都府京都市) 第122代天皇
激動の幕末から明治にかけて、近代国家へと生まれ変わる日本の中心に立ち、富国強兵と文明開化を牽引した第122代天皇です!わずか15歳で即位し、大政奉還王政復古の大号令という歴史的大転換を経験。新政府の基本方針である「五箇条の御誓文」を神々に誓い、都を京都から東京へと移しました。自らマゲを切り、西洋の軍服を身にまとい、牛肉を食べるなど、天皇自身が率先して西洋文化を取り入れることで日本の「文明開化」をアピール!大日本帝国憲法を発布してアジア初の立憲君主制を確立し、日清・日露戦争という国家の存亡を懸けた危機においては、大本営で兵士たちと苦労を共にしました。生涯でなんと約10万首もの和歌(御製)を詠み、その多くに国民の幸せと世界平和への切実な願いが込められています。崩御の際には乃木希典ら多くの人々がその後を追い、後に国民の寄付と勤労奉仕によって明治神宮が創建されるなど、「明治大帝」として国民から絶大な敬愛を集めた偉大なカリスマのストーリーです!
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激動の幕末に生まれた祐宮

1852年、孝明天皇の第二皇子(祐宮:さちのみや)として京都に誕生しました。ペリーの黒船来航が翌年に迫る激動の時代であり、幼い頃から尊王攘夷の嵐が吹き荒れる不穏な京都の空気を肌で感じながら成長していきます。
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わずか15歳での天皇即位

1867年、父・孝明天皇が突然崩御したため、わずか15歳(満14歳)で第122代天皇に即位します。直後に徳川慶喜による大政奉還が行われ、王政復古の大号令が発せられるなど、少年天皇はいきなり日本の大改革の中心に立つことになりました。
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新しい日本の指針「五箇条の御誓文」

1868年、新政府の基本方針を神々に誓う「五箇条の御誓文」を発布します。「広く会議を開いて物事を決めよう」「悪い古い習慣を捨てよう」「世界から知識を求めよう」など、近代国家へ向けた力強いメッセージを天皇自らが宣言しました。
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さよなら京都!東京への遷都

新しい政治の拠点として、それまでの江戸を「東京」と改め、天皇の住まい(皇居)も長年慣れ親しんだ京都から東京へと移転しました。これにより、政治と文化の中心が完全に東京へと移り、新しい「明治」という時代の幕が開けました。
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自ら率先して「文明開化」を実践

「日本を近代化させるためには、まず自分が手本を見せなければならない」と考え、自らのマゲ(髷)を切り落として西洋風の髪型にし、公家の衣装ではなく西洋の軍服を着用!さらに当時はタブーとされていた牛肉も率先して食べ、国民に文明開化を促しました。
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西郷隆盛との強い絆と西南戦争

維新の三傑である西郷隆盛を深く信頼し、個人的にも大変慕っていました。それゆえに1877年の「西南戦争」で西郷が反乱を起こした際には深く心を痛め、西郷が自刃したと聞いた時は人知れず大きなショックを受けたと言われています。
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アジア初の立憲君主制の確立

1889年、自ら国民に憲法を授ける形で「大日本帝国憲法」を発布しました。これにより、アジアで初めて議会と憲法を持つ近代的な立憲君主制国家が誕生。天皇を国家の元首としつつも、立憲主義の枠組みの中で政治を行うシステムが完成しました。
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日清・日露戦争と兵士への思い

日清戦争の際には広島の大本営に自ら赴き、ストーブも置かない質素な部屋で兵士たちと苦労を共にしながら戦争の指揮を執りました。日露戦争においても、国家の存亡を懸けた戦いに赴く兵士たちを深く案じ、常に国民に寄り添う姿勢を貫きました。
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平和を願う10万首の和歌(御製)

生涯になんと約10万首(1日平均で6首!)もの和歌(御製)を詠んだ超・教養人でした。日露戦争の開戦前に詠まれた「よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ」という歌には、世界平和への切実な祈りが込められています。
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巨星墜つ。明治大帝と明治神宮

1912年(明治45年)、60歳で崩御します。天皇の死に日本中は深い悲しみに包まれ、乃木希典大将夫妻が殉死(切腹)するという衝撃的な事件も起きました。その後、天皇を慕う国民の寄付とボランティアによって、東京に広大な「明治神宮」が創建されました。
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