1222年、安房国(現在の千葉県鴨川市)の小さな漁村で誕生しました。自らを「海辺の旃陀羅(せんだら:最下層の身分)の子」と呼び、虐げられた庶民の痛みがわかる下層階級の出身であることを生涯の誇りとしました。
12歳で清澄寺に入って出家し、その後は鎌倉、京都の比叡山、高野山など日本中の仏教の拠点へ遊学してあらゆる経典を読み漁ります。その結果、釈迦の真の教えは『法華経』にのみあるという絶対的な確信に至りました。
1253年、32歳の時に故郷の清澄寺の山頂に立ち、昇る朝日に向かって「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」と声高らかに唱えました。これがいわゆる日蓮宗(法華宗)の「立教開宗(りっきょうかいしゅう)」の瞬間です。
当時、日本は相次ぐ大地震や異常気象、飢饉、疫病という地獄のような惨状でした。彼はこの原因を「幕府や民衆が法華経を信じず、念仏などを信仰しているからだ」と考え、前執権・北条時頼に『立正安国論』を提出して政治体制を痛烈に批判しました。
他宗派を名指しで激しく批判したため、念仏の信者たちから襲撃されて草庵を焼き討ちされたり(松葉ヶ谷の法難)、幕府から危険視されて伊豆国へと流罪(伊豆法難)にされたりと、命を狙われる過酷な弾圧を何度も受けます。
1271年、幕府(北条時宗)を再び批判したことで捕らえられ、ついに鎌倉の龍ノ口刑場で斬首(死刑)されることになります。しかし、処刑人の刀が振り下ろされようとした瞬間、江ノ島の方から「光り物(雷や隕石)」が飛んできて刑を免れるという奇跡が起きました!
死刑を免れたものの、極寒の佐渡島への流罪(佐渡始末)となります。雪の吹き込むボロボロの三昧堂(死者の安置所)という絶望的な環境の中で、彼はむしろ法華経の行者としての自覚を深め、本尊である「大曼荼羅(だいまんだら)」を完成させました。
彼が『立正安国論』で警告していた「他国からの侵略(他国侵逼難)」が、1274年のモンゴル帝国による日本侵攻(文永の役:元寇)によって現実のものとなります。この予言的中により、幕府も彼を恐れて佐渡流罪を赦免しました。
赦免されて鎌倉に戻り、幕府に三度目の国難を警告しますが受け入れられず、「三度諫めて聞き入れられなければ山林に交わる」という故事に従い、甲斐国(山梨県)の身延山に入ります。そこで晩年を過ごし、多くの優秀な弟子を育成しました。
1282年、病の療養のために常陸国(茨城県)の温泉へ向かう途中、武蔵国の池上(現在の東京都大田区・池上本門寺)で生涯を閉じました(享年61)。どんな権力にも屈せず、法華経に命を懸けた、日本仏教史上最も熱く激しい闘いの生涯でした。