新田 義貞 にった よしさだ

1301年 - 1338年 鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生没年月日: 正安3年(1301年)※諸説あり 〜 延元3年/建武5年閏7月2日(1338年8月17日)
出身: 上野国新田荘(群馬県太田市) 武将
鎌倉幕府を滅亡させた最大の功労者でありながら、足利尊氏との覇権争いに敗れた悲劇の猛将です!源氏の超名門の血筋でありながら冷遇されていましたが、後醍醐天皇の呼びかけに応じて挙兵。稲村ヶ崎で黄金の剣を海に投げ入れて潮を引かせたという「稲村ヶ崎の奇跡」を起こし、わずか半ヶ月で難攻不落の鎌倉を攻め落とす大偉業を成し遂げました!建武の新政では尊氏の最大のライバルとして活躍しますが、湊川の戦いで盟友・楠木正成を失い、次第に劣勢に立たされます。最後は北陸の泥濘(ぬかるみ)の中で矢を受け、自らの首をかき切って壮絶な最期を遂げました。不器用なまでに真っ直ぐで、天皇への忠義を貫いた義将のストーリーです!
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名門源氏なのに超ビンボー?

1301年頃、上野国(群馬県)に生まれました。新田氏は、足利氏と同じく「清和源氏」の超名門の血筋(同じご先祖様)でしたが、鎌倉時代を通じて北条氏から冷遇され、領地も小さく貧しい生活を送っていました。対照的に大金持ちでエリート待遇だった足利氏に対して、新田一族は悔しい思いを抱えながらひっそりと暮らしていたのです。
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怒りの挙兵!幕府の取り立てを拒否

1333年、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒すために立ち上がります(元弘の乱)。この時、幕府は戦争の資金を集めるために、新田氏の領地にも法外な税金(軍資金)の取り立てにやってきました。これに激怒した義貞は、なんと幕府の役人を斬り殺してしまいます!「もう我慢の限界だ!」と、義貞はついに幕府を倒すための挙兵を決意しました。
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怒涛の進撃と、集まる武士たち

生品神社(群馬県太田市)でわずか150騎で旗揚げした義貞ですが、「新田が立ったぞ!」という噂を聞きつけて、幕府に不満を持つ関東の武士たちが次々と合流します。進軍するにつれて軍勢は雪だるま式に膨れ上がり、数万の大軍へと成長しました!怒涛の勢いで幕府の軍隊をなぎ倒し、いよいよ北条氏の本拠地である鎌倉へと迫ります。
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テストに出る!稲村ヶ崎の奇跡

しかし、鎌倉は海と山に囲まれた天然の要塞。極楽寺坂などの入り口は守りが固く、軍は完全に足止めされてしまいます。そこで義貞は、海側の「稲村ヶ崎(いなむらがさき)」の前に立ち、龍神に向かって祈りを捧げ、自分の黄金の剣を海へと投げ入れました!すると不思議なことに、潮がみるみるうちに引き、干潟を通って一気に鎌倉へ突入することができたという伝説が残っています。
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わずか半ヶ月!鎌倉幕府の滅亡

稲村ヶ崎を突破した新田軍は、鎌倉市内に雪崩れ込み、激しい市街戦を展開します。大混乱の中、追い詰められた北条高時ら数百名が東勝寺で自害し、約150年も続いた巨大な鎌倉幕府はついに滅亡しました。義貞が挙兵してから、わずか半ヶ月(15日間)という信じられないほどの超スピードで歴史をひっくり返した大金星でした。
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建武の新政と、足利尊氏との激突

幕府を倒した最大の功労者として、後醍醐天皇から大絶賛され、複数の国の国司になるなど大出世を果たします。しかし、同じく討幕のヒーローであった足利尊氏と「どちらがナンバーワンか」で激しいライバル関係になります。やがて武士の不満を背負った尊氏が天皇に反旗を翻すと、義貞は「天皇を守る総大将」として、最強のライバル尊氏と激突することになりました!
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箱根・竹之下の戦いでの大敗北

1335年、義貞は尊氏を討つために大軍を率いて東海道を下ります。しかし「箱根・竹之下の戦い」で、味方の裏切りなどもあって足利軍にまさかの大ボロ負けをしてしまいます!這々の体で京都へ逃げ帰った義貞でしたが、すぐに態勢を立て直し、盟友である楠木正成らと協力して、京都に攻め上ってきた尊氏の軍勢をなんとか九州へと追い払うことに成功しました。

湊川の戦いと、盟友・楠木正成の死

しかし翌1336年、九州で信じられないほどの大軍を集めて復活した尊氏が、再び京都へ向けて攻めてきます。義貞は兵庫県の「湊川(みなとがわ)」でこれを迎え撃ちますが、海と陸からの足利軍の波状攻撃に大苦戦!義貞は敵に背後を突かれるのを防ぐために撤退を余儀なくされ、孤立した盟友・楠木正成は壮絶な戦死(自害)を遂げてしまいました。
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極寒の北陸へ!皇太子を護っての逃避行

湊川の戦いに敗れ、京都も尊氏に奪われてしまった義貞は、後醍醐天皇の息子である恒良親王(つねよししんのう)らを奉じて、雪深い越前国(福井県)へと落ち延びます。北陸の過酷な環境の中で、迫り来る足利軍を相手に金ヶ崎城などで激しい防衛戦を繰り広げました。寒さと飢えに苦しみながらも、天皇への絶対的な忠誠心を胸に決して諦めることはありませんでした。
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藤島(藤島の戦い)の泥濘に散る

1338年、越前の黒丸城(福井市)を攻めるため、わずかな手勢で出陣した義貞は、運悪く敵の大軍と鉢合わせてしまいます。藤島と呼ばれる泥深い田んぼ(泥濘)に馬の足をとられて身動きが取れなくなり、敵の放った矢が眉間に命中!「もはやこれまで」と悟った義貞は、自ら刀で自分の首をかき切るという壮絶な最期を遂げました。不器用なまでに真っ直ぐに生きた、享年38の義将の死でした。
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