1862年、盛岡藩(岩手県)の上級武士の三男として生まれました。幼名は稲之助。新渡戸家は、祖父の代から荒れ地だった「三本木原(現在の青森県十和田市)」の開拓事業を成功させた名家であり、この「荒れ野を切り拓く開拓精神」と「農学への関心」が、幼い稲造の魂に深く刻み込まれました。
東京英語学校を経て、北海道の札幌農学校(現在の北海道大学)の第2期生として入学します。有名なクラーク博士はすでに帰国していましたが、彼が残した「少年よ、大志を抱け(Boys, be ambitious)」の精神とキリスト教信仰は先輩たちを通じて稲造にも強く受け継がれ、ここで洗礼を受けました。
札幌農学校を卒業後、さらに深く学ぶために東京大学(当時の東京帝国大学)の面接を受けた際、面接官に「君は英文学を学んでどうするつもりか?」と問われました。その時、稲造は「我、太平洋の橋とならん(日本と西洋の架け橋になりたい)」と堂々と宣言!彼の生涯のテーマが決定した瞬間です。
私費でアメリカのジョンズ・ホプキンス大学へ留学し、さらにドイツの大学でも農政学や経済学を学びます。アメリカ滞在中、クエーカー教徒(平和と平等を重んじるキリスト教の一派)の集会でメアリー・エルキントンという女性と出会い、周囲の猛反対を押し切って愛を貫き、当時としては珍しい国際結婚を果たしました。
過労で倒れてカリフォルニアで療養していた時、外国人から「日本には宗教の教育がないのに、どうやって道徳を教えるのか?」と問われたことを思い出し、英語で『武士道(Bushido: The Soul of Japan)』を執筆!日本の義理や名誉の精神を西洋の哲学と交えて見事に解説し、世界的な大反響を巻き起こしました。
教育者・学者としての実力を買われ、台湾総督府の技師として台湾へ赴任します。当時、遅れていた台湾のサトウキビ産業(糖業)を近代化するための画期的な意見書を提出し、品種改良や工場建設を強力に推進!台湾の経済発展の基礎を築き、「台湾糖業の父」とも呼ばれる大活躍を見せました。
帰国後、日本の超エリートが集まる第一高等学校(一高)の校長に就任します。バンカラで荒々しかった学生たちに対し、厳しく罰するのではなく「教養(教養主義)と人格の形成」を優しく説き続けました。彼の温かく人間味あふれる教育方針は、多くの若者たちの心を掴み、熱烈に慕われました。
第一次世界大戦後、平和な世界を目指して「国際連盟」が設立されると、なんと新渡戸が初代事務次長の一人として大抜擢されます!ジュネーブに駐在し、卓越した語学力と国際感覚、そして誰からも愛される誠実な人柄で各国の意見を調整。「ジュネーブの星」と讃えられ、世界の平和構築に尽力しました。
帰国後の1932年、軍部が暴走して満州事変を引き起こす中、稲造は「わが国を滅ぼすものは共産党か軍閥である」と軍部の独走を真っ向から批判!これに激怒した軍部や在郷軍人会から猛烈なバッシングと命の危険を受け、やむなく謝罪に追い込まれますが、心の中の平和への信念は決して曲げませんでした。
日本が国際社会から孤立していくことに深く胸を痛めた稲造は、日本の立場を説明し、アメリカとの関係悪化を防ぐために老体を推して北米へと渡ります。しかし1933年、カナダのビクトリアで倒れ、71歳で客死。「太平洋の橋」として最後まで平和のために命を削り切った、誇り高き生涯でした。