1657年、江戸の大半を焼き尽くした「明暦の大火」の直後、焼け出された避難先で生まれました。そのため幼い頃は気性が非常に激しく、怒ると眉間に「火」という文字のようなシワができたことから「火の子」と呼ばれていたという、熱いエピソードを持っています。
「火の子」は成長すると「学問の鬼」へと変貌します。どうしても眠気に勝てない時は、なんと冬の寒い夜に「頭から氷水をかぶって目を覚まし、また机に向かう」という凄まじい根性で猛勉強を重ね、学者としてメキメキと頭角を現していきました。
彼の圧倒的な才能を見抜いたのが、当時のトップ儒学者・木下順庵です。順庵は白石を自分の弟子として特別扱いし、「この若者は将来必ず天下国家のために役立つ!」と太鼓判を押しました。加賀藩(前田家)からの好条件のスカウトも、同門の友人に譲るという男気を見せています。
1693年、甲府藩主であった徳川綱豊(のちの第6代将軍・徳川家宣)の「侍講(学問の先生)」として大抜擢されます。家宣は白石の講義を非常に熱心に聞き、二人の間には単なる主従を超えた、深い信頼関係と師弟の絆が結ばれていきました。
家宣が第6代将軍に就任すると、白石は将軍のブレーンとして幕府の政治のど真ん中に躍り出ます!側用人の間部詮房(まなべ あきふさ)とともに、先代(綱吉)時代の極端な法令(生類憐れみの令など)を廃止し、儒学の「正しい道理」に基づいた理想的な政治改革「正徳の治」を強力に推し進めました。
当時、幕府は財政難を理由に金や銀の含有量を減らした質の悪い貨幣(元禄小判など)を発行し、激しいインフレ(物価高)が起きていました。経済学にも通じていた白石は「お金の価値を下げるのは国を滅ぼす!」と、元の高品質な貨幣(正徳小判)に戻す改革を行い、経済の安定を図りました。
長崎でのオランダや清(中国)との貿易により、日本から大量の金や銀が海外へ流れ出ていることに強い危機感を抱きます。そこで1715年に「海舶互市新例(長崎新令)」という厳しいルールを作り、貿易の年間取引量や船の数を制限して、日本の国富(お金)が外国に流出するのをピタリと止めました。
屋久島に密入国して捕まったイタリア人宣教師・シドッチの尋問を任されます。白石は彼を拷問するどころか、その豊かな西洋の知識や誠実な人柄を高く評価!シドッチから聞き出した世界地理やキリスト教の知識をまとめ、日本初の本格的な西洋研究書『西洋紀聞』と『采覧異言』を書き上げました。
彼は優れた歴史家・著述家でもありました。自分がどのようにして将軍に仕え、どんな思いで政治を行ってきたのかを後世に伝えるため、『折りたく柴の記』という回想録(自叙伝)を執筆。これは日本史上、個人の内面や政治の裏側をこれほど詳細に書いた初めての本格的な自叙伝と言われています。
最大の理解者であった家宣がわずか3年で病死し、その後を継いだ幼い第7代将軍・家継も早世してしまいます。第8代将軍として徳川吉宗が就任すると、白石の政策は否定され、政治の舞台から完全に降ろされてしまいました。しかし晩年は学者に戻って穏やかに執筆活動を続け、69歳でその偉大な生涯を閉じました。