1571年、伊達家の家臣の子として出羽国(山形県米沢市)に生まれました。若い頃から伊達政宗に仕え、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)や、葛西大崎一揆の鎮圧などで武功を挙げて活躍した、真面目で実直な中堅クラスの武士でした。
1613年、主君の政宗から信じられないような特命を受けます。「スペインと直接貿易を行い、仙台藩を豊かにしたい。お前が使節のトップとしてヨーロッパへ行き、交渉してこい!」と。こうして常長は、40歳を過ぎてから前代未聞の大航海「慶長遣欧使節」の正使に大抜擢されました。
仙台藩が幕府の許可を得て独自に建造した、巨大な西洋式帆船「サン・ファン・バウティスタ号」に乗り込み、宣教師ルイス・ソテロや約180名の日本人とともに月浦(宮城県石巻市)を出港!荒れ狂う太平洋を約3ヶ月かけて横断するという、まさに命懸けの船出でした。
無事に太平洋を横断し、当時スペインの領土だったメキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)のアカプルコへ上陸!サムライたちが未知の大陸を歩く姿は現地の人々を驚かせました。ここから陸路でメキシコシティを横断しますが、一部の日本人はそのままメキシコに残り、現在もその子孫が暮らしていると言われています。
メキシコから別の船に乗り換えて大西洋を横断し、1614年、ついに最終目的地であるスペインへ到着!首都マドリードで当時の超大国スペインの国王・フェリペ3世に謁見し、政宗からの親書を手渡しました。しかし、貿易の交渉はなかなかスムーズには進みませんでした。
交渉を有利に進めるため、また自身の信仰への目覚めもあり、常長はマドリードで洗礼を受けてキリスト教徒となりました。国王から「フェリペ」の名前をもらい、「ドン・フェリペ・フランシスコ・ハセクラ」という洗礼名を授かるという、当時の日本人としては考えられない名誉を受けました。
スペインでの交渉が難航したため、常長はさらにヨーロッパを移動し、1615年にイタリアのローマへ到着!ついにキリスト教界のトップであるローマ教皇・パウロ5世との歴史的な対面を果たします。教皇は長旅の労をねぎらい、常長に「ローマ市民権」という特大の称号を与えました。
教皇との謁見という大成功を収めた常長ですが、悲劇が迫っていました。彼がヨーロッパを駆け回っている間に、日本では徳川家康が厳しい「キリスト教禁止令(禁教令)」を出していたのです!このニュースがヨーロッパにも届き、「日本はキリスト教を弾圧しているから信用できない」と、貿易交渉は完全に拒否されてしまいました。
交渉失敗に終わり、フィリピンなどを経由して1620年に日本へ帰国しました。出発からなんと7年が経過していました。しかし帰国した日本はすっかり鎖国への道を歩んでおり、主君の政宗も幕府に目をつけられないよう「私はキリスト教には興味がない」という態度を取らざるを得ず、常長の偉業が讃えられることはありませんでした。
夢を砕かれ、世界を見てきたその見識を活かす場も与えられないまま、帰国からわずか2年後の1622年に失意の中で病死しました(享年52)。その後、彼の存在は江戸時代を通じて歴史の闇に葬られていましたが、明治時代になって彼がヨーロッパに持ち込んだ手紙や記録が発見され、その世界的偉業が再び光を浴びることになったのです。