日本史上初の女性天皇であり、血みどろの権力争いを鎮めて国をまとめ上げた飛鳥時代の偉大な女性リーダーです!天皇が暗殺されるという前代未聞のパニックの中、39歳で即位。甥である天才・聖徳太子を摂政に大抜擢し、強大な権力を持つ蘇我馬子とともに「最強のトロイカ(三人)体制」を築きました。冠位十二階や十七条の憲法を制定して役人のルールを作り、小野妹子ら遣隋使を中国(隋)へ派遣して対等な外交を要求するなど、日本が「独立した立派な法治国家」として認められるための強固な土台を作り上げました。36年間もの長きにわたって天皇の座を守り抜き、華やかな飛鳥文化を花開かせたカリスマの生涯を見ていきましょう!
554年、第29代・欽明天皇と蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)の間に生まれました。幼名は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。母親が蘇我氏の出身であり、のちに絶対的な権力者となる蘇我馬子は叔父にあたります。幼い頃から容姿端麗で、非常に聡明な女性であったと伝えられています。
18歳の時、異母兄である第30代・敏達(びだつ)天皇の妃となり、やがて皇后(正妻)に選ばれます。当時は皇族同士の結婚は珍しくありませんでした。皇后として天皇を支えながら、政治の表舞台に近い場所で国を動かす権力のメカニズムを学んでいきます。
敏達天皇が亡くなった後、朝廷では「仏教を取り入れるか」を巡って蘇我馬子と物部守屋が激しく対立し、馬子が物部氏を武力で滅ぼします。さらに、馬子が擁立した第32代・崇峻(すしゅん)天皇までもが、馬子と対立した末に暗殺されるという、前代未聞の恐ろしい大事件が起きてしまいました!
天皇が暗殺されるという異常事態に朝廷はパニックに陥ります。「この混乱を収められるのは、血筋も良く、皆から尊敬されている彼女しかいない!」と白羽の矢が立ち、592年、39歳でついに第33代「推古(すいこ)天皇」として即位しました。東アジアでも極めて珍しい、日本史上初の女性天皇の誕生です!
即位した推古天皇は、自分を支える強力なパートナーとして、弱冠20歳の天才・厩戸皇子(うまやどのおうじ:のちの聖徳太子)を「摂政(せっしょう:天皇の代わりに政治を行う役職)」に大抜擢します!天皇自身と、摂政の聖徳太子、そして大臣の蘇我馬子という「最強のトロイカ(三人)体制」で、国の改革に乗り出しました。
推古天皇の時代を代表する改革が、603年の「冠位十二階」と604年の「十七条の憲法」です。家柄に関係なく才能ある人材を登用するためのルールや、「和をもって貴しとなす」で始まる役人の心構えを定めました。これらは、日本が野蛮な国ではなく、立派な法治国家であることを世界(中国)にアピールするための重要なステップでした。
607年、小野妹子(おののいもこ)らを「遣隋使」として中国の隋へ派遣しました。この時に持たせた手紙には「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と書かれており、隋の皇帝・煬帝(ようだい)を激怒させました!しかし、これは「日本は隋の家来ではなく、対等な独立国だぞ!」という、推古天皇たちの強い意志の表れだったのです。
熱心な仏教信者であった推古天皇は、仏教を国の力として手厚く保護しました。聖徳太子が建てた法隆寺や四天王寺、馬子が建てた飛鳥寺など、立派なお寺が次々と作られ、仏像などの美しい美術工芸品が生まれました。この時代に花開いた、日本初の仏教文化を「飛鳥文化」と呼びます。
蘇我馬子とは親戚であり協力者でしたが、天皇としての威厳は決して譲りませんでした。ある時、馬子が「私の先祖の土地である葛城(かつらぎ)の領地を私にください」と要求してきました。しかし推古天皇は「私が身内のあなたに国の土地を特別に与えたら、後世の人から『愚かな天皇』と言われてしまう」とキッパリ拒否!公私のけじめを厳しくつけたのです。
聖徳太子や馬子が先にこの世を去る中、推古天皇は628年に75歳で崩御するまで、実に36年間もの長きにわたって天皇の座にあり続けました。血みどろの権力争いから始まった時代を「和」の心で見事にまとめ上げ、日本が律令国家へと成長するための強固な土台を築いた、極めて優秀で偉大な女性リーダーでした。