1744年、駿河国小島藩(1万石)の藩士の家に生まれます。本名は倉橋格(くらはしいたる)。のちに藩の政治を担う「年寄(家老)」にまで出世する超エリート武士でしたが、実は彼には「江戸の天才クリエイター」というもう一つの裏の顔がありました。
「恋川春町」という華やかなペンネームですが、実はこれ、彼が住んでいた江戸の藩邸の住所である「小石川春日町(こいしかわかすがちょう)」をもじったものです。エリート武士が身分を隠して執筆するための、粋な言葉遊びでした。
1775年、田沼意次が権力を握る自由な気風の中、『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』を発表します。田舎者が江戸で一攫千金を夢見るものの、すべては粟餅が焼ける間の短い夢だったという、中国の故事「邯鄲の夢」のパロディでした。
『金々先生栄花夢』は、それまでの子供向けの絵本とは全く違う、大人向けの高度な風刺と洒落が詰まった作品で、表紙が黄色かったことから「黄表紙(きびょうし)」と呼ばれ大ブームに!彼こそが黄表紙という新ジャンルを創り上げた生みの親なのです。
驚くべきことに、彼は文章を書くだけでなく、本に挿入される絵(浮世絵)もすべて自分で描いていました。文章のテンポの良さと、絵のコミカルさが完璧にマッチした作品は、江戸のインテリ層や庶民から熱狂的な支持を集めました。
彼が生きた田沼時代は、賄賂政治と批判される一方で、非常に自由で活気のある時代でした。春町は、大田南畝(蜀山人)や平賀源内、蔦屋重三郎ら一流の文化人たちと交流し、江戸のポップカルチャーを牽引するトップスターとして君臨しました。
しかし、松平定信による厳格な「寛政の改革」が始まると事態は一変します。春町は1789年、『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』という作品を発表。これは、定信が武士たちに文武両道を強要する窮屈な政策を痛烈に皮肉った危険な風刺作でした。
この痛烈な批判に対して幕府(松平定信)は大激怒!ついに春町に対して、幕府の重役(若年寄)から直接の出頭命令が下されます。「武士の身でありながら、幕府の政策を批判する戯作を書くとは何事だ!」と、絶体絶命のピンチに陥りました。
もし自分が出頭して処罰されれば、主君や小島藩全体に累が及ぶ(お取り潰しなど)と考えた春町は、「重病」を理由に出頭を拒否し、急いで藩の年寄役を辞任して隠居してしまいます。エリート武士としての責任と、クリエイターとしての業の板挟みでした。
隠居して出頭を逃れた直後の1789年、彼は46歳で突然この世を去りました。公式には病死とされていますが、「藩に迷惑をかけないために自害した」という噂が江戸中に広まりました。自らの才能と引き換えに命を散らした、江戸の天才の美しくも悲しい最期でした。